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平安時代の超権力者から、平清盛まで魅せた子宝温泉、有馬温泉

娘を設け、天皇に嫁がせ、男の子を生ませて、その子を天皇にして・・・操る! 悪い奴らだとお思いでしょうが、この時代は常識で、有馬温泉は存在価値があったのです。

超権力者の入湯

1024年10月25日から11月8日まで藤原道長が入湯しています。
一家で三人の后を輩出する「一家三立后」を達成し、事実上の最高権力者となったのですが、一年で息子の頼通に摂政を譲る。本人は糖尿病で苦しみ政界から引退して出家、有馬温泉で療養したようです。

藤原道長のように、娘を天皇に嫁がせ男の子を生ませ、摂政・関白として権力を握るという構図は、そう常にうまくいくわけはない。

1042年、道長の子ども頼通が有馬温泉にやって来ます。頼通は子供に恵まれず、多くの妻を抱える事もしなかったと言います。子宝の湯といわれる有馬温泉に奥さん同伴だったと思います。頼通というと反乱や疫病の平穏を阿弥陀如来に祈願する為に、10円玉に描かれている平等院鳳凰堂を建立た事で有名です。

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1097年、希代の濫雨山津波、崖崩れあったと、六甲山の災害史に記録があります。これでまた有馬温泉は土砂に埋まり、しばらくは人が訪れることは出来なかったと思います。

両刀使いの白河天皇の子

1128年、有馬に白河天皇が来る。その後、白河法皇として、院政を引きます。白河天皇は両刀使いだった。女性の身分問わず やりまくったようです。(言葉使いが悪くて申し訳ありません)

その中の一人と出来た子が平清盛だと言われています。「平家物語」によると、法皇の子を身ごもった祇園の女御が忠盛与えられた。忠盛は白河院政と鳥羽院政を武力面で支えていたほか、日宋貿易で富を築いていたのです。

それを受け継いだのが平清盛。鳥羽院に使え死後、後白河天皇方につき地位と権力を築いていく。

清盛は妻の妹の滋子(建春門院)を後白河法皇に嫁がせ、二人の間に出来た高倉天皇のもとへ娘の徳子(建礼門院)嫁がせ、なかなか子供が出来ないので焦ったはずです。

1162年頃から清盛は大和田の泊りの改修を始め、福原に居を移します。有馬温泉のすぐ近くです。有馬の温泉寺には、清盛の石塔があるが清盛が有馬に来たという史実はないのです。石塔の年代測定をしたら少し年代が新しいと言います。

1163年に心西入道という僧が温泉寺に法華経を奉納した史実がある。

心西という僧は他には名前が出てこない。平家一門は平家の繁栄を祈って厳島神社等多くの神社に経を奉納しています。

お経を奉納するという事は、そうとうの財力がないと出来ない事なので、清盛が偽名を使って有馬の温泉寺に法華経を奉納し、高倉天皇と娘の徳子との間に子供が出来るように温泉寺の薬師如来に祈願したんじゃないかと勘繰ってしまうのもわかるでしょう?

匿名にしたのは、清盛と後白河法皇との対立が起こりだしてきたからだと思います。天皇のもとに娘を嫁がせて、男の子を生ませて、天皇にして最終的に自分たちの都合の良いようにするのは当時の常套手段だったからです。

1178年、史実として安徳天皇が生れる。清盛の思惑通りです。しかし、この安徳天皇は3歳で即位して6歳で壇ノ浦の戦いで亡くなり、平家の時代も終わるのです。

1176年、後白河法皇と建春門院が来ます。病気の治療に来たのか、有馬から戻って1週間ほどで建春門院は亡くなるのです。

1185年7月9日元暦大地震(文治大地震)が起こっています。この地震の事は鴨長明の方丈記で語られています。壇ノ浦の戦いが同年の4月25日。海の民である平家が突然の海流の変化で源氏に負けてしまいます。

群発地震による海流の変化によるものかもしれません。

この頃に地震が多発していた事を裏付ける一つとして、1184年2月7日に一の谷の戦いが起こるのですが、義経は京都から丹波、播磨から小野、三木と遠回りをして駆けつけます。

有馬を通って三木に出れば近いのに不思議です。つまりこの時期には有馬は群発地震で土砂崩れを起こし、道が通れなかった。と考えられます。

新平家物語

1950年から1957年にかけて週刊朝日に連載された吉川英治の大作です。

この作品が出るまでは、天皇に歯向かった歴史上の人物は全て悪者扱いにされていましたが、この作品を機会に歴史上の英雄にもなるようになったのです。

吉川英治は執筆の際に、取材旅行の出来事を「随筆 新平家」として書いています。

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この中で昭和29年7月4日 御所坊の二階に泊まり俳句を詠んでいます。その三番目の句が御所坊に展示されています。

翌日、温泉寺にある石塔を取材に行っています。その事が記載されています。

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金井啓修
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