会社を辞めた⑨
21〜26日の山陰山陽旅の4日目。この日だけは、自分の行動を省みる必要がある。
旅に限らず、娯楽とは自分から楽しみに行く努力が必要だと思っている。たとえば映画を見る際に予告編を見て気分を高めたり、あらすじをチェックしたりすればある程度の知識を持って鑑賞に臨めるし、事前にキャストや監督をチェックしたりしておけば、この監督は前はこういう作品を撮っていたな、あの俳優はこういう演技をする印象だけど今回はどうだろうーーなど、楽しみの幅や視点が膨らみ多角化するというわけだ。
旅にしても、事前に目的地がどのような由緒の場所なのか、知っているのと知らないのとでは雲泥の差があると思うのだ。私はそういう点で、4日目を楽しむ準備を怠ってしまったと思う。
24日は愛媛県に向かった。
人生一度はしまなみ海道をわたってみたい。そんな思いに駆られて行先を愛媛とした。
ただ、行先の決め方がよくなかった。正直な話、前日の夕方までは山口県に足を伸ばす気満々だった。歴史のことはよく知らないが幕末だの新選組だのが当たり前に好きなので、吉田松陰の実家や高杉晋作の生家、高杉が蜂起したとされる寺などを回ってみたいと思っていた。それなのに、出雲大社からの帰り道にYouTubeで山口の旅動画を流していて、(なんかあんまりときめかないな・・・)などと思ってしまったのだ。
おまけに、23日の夜に「ちょっと高くてもいいから広島の地酒と地場産品を使った料理を堪能したい。というか牡蠣を食べたい」という切実な思いで食べログで探した「當巳」でおかみさんと交わした会話がよくなかった。
1万円のフルコースを予約したのだが、いやあ本当においしくて大満足。腹パンになるまで瀬戸内海の海鮮が次々に出てきて、こういうのが食べたかったんだよこういうのが。甘くない栗だかかぼちゃだかの餡がはさまった最中や柿とカブの酢漬けなどが乗った先付から始まり、ハモと原木シイタケの土瓶蒸し、カワハギの刺身とブリカマ煮、サワラの焼き刺しにカツオのタタキ、ウナギの白焼きを海苔で巻いたやつと店主の出身地だという埼玉産の合鴨ロース煮、極めつけは牡蠣とマコモダケの天ぷらと手づかみのカキ寿司。広島の地酒で合わせた亀齢も宝剣もおいしくて、最高の広島の夜を味わえた。
話がそれた。
つまり、YouTubeの旅動画のせいで山口県に行くべきか迷っていた私に、追い打ちのようにかけられた「しまなみ海道は気持ちいいよ~!」などというおかみさんの甘い文句に誘われて、たいして予習もしていないのに愛媛に目的地を変更してしまったのである。
24日、天気は晴れ。
瀬戸内海の景色を見ながらドライブするのは気持ちよく、目的地に選んだ道後温泉は「千と千尋の神隠し」の油屋のモデルの一つと言われるだけあり、非日常を体験できる不思議な建物だった。
道後温泉の公式ホームページなどによると、道後温泉の名称は大化の改新(645年)によって各国に国府がおかれたことにより生まれた道前・道中・道後の名称が由来。約3千年の歴史を誇る日本最古の温泉とされており、神々が温泉に入った伝承や、足に傷を負った白鷺が温泉を見つけたという伝説、聖徳太子が温泉を訪れて詠んだ碑文一首などが残されている。
道後温泉のシンボルである「道後温泉本館」は、1994年に公衆浴場として初めて国の重要文化財に指定された建物で、1894年に神の湯本館棟が竣工してから今年で130周年を迎える。その間に移築や増改築を繰り返しており、現在「神の湯」「霊の湯」の2種類の浴場での入浴が楽しめるほか、休憩室でのサービスが受けられる。ほかにも道後温泉には「飛鳥乃湯温泉」「椿の湯」の二つの共同浴場があり、観光客は門前の温泉街をぶらりと散策しながら、異なる浴場での湯めぐりを楽しめる。
後から調べれば簡単にわかるのだが、道後温泉の楽しみ方の神髄はこの「湯めぐり」にある。愛媛県今治市の名産「今治タオル」を片手に重要文化財で温泉につかるという非日常が味わえる本館を中心に浴場をめぐりながら、愛媛の都市伝説「みかんジュースが出る蛇口」で品種の異なるみかんジュースを味比べし、土産品店を冷やかしまくるー。今私がもう一度道後温泉に行くとしたら絶対にこのような楽しみ方をするだろう。
だが旅行当日の私ときたら、日本酒にべろべろに酔った頭で愛媛行きを決め、楽天ブックスのるるぶで道後温泉のページだけを見て一番有名なところだからと目的地とし、現地まで4時間弱かかるものだから朝も起き抜けすぐに身支度、たいして調べもせずにホテルを出発。準備不足も甚だしい状態で一大観光地に着いてしまった。
その結果何が起こったかというと、道後温泉本館のシステムがよくわからず神の湯のみ入るコースを選んでしまい、二つの浴場に入ることができず、せっかくの重文の建物を隅々までめぐることもできなかった。
道中で見ていた愛媛県人によるYouTube動画の「道後温泉は温泉よりも温泉街を楽しむところだと思っています」などという文句にも踊らされ、本館以外の温泉に入る選択肢も取り落とした。私はもう二度と旅行する際にYouTubeなどあてにしない。これは教訓であるが、人間ひとりひとり趣味嗜好、価値観、歩んできた人生すべてがまったく違うので、自分の手で調べ自分の頭で考え自分の好みの旅程を組んだほうがいい。美味しい飲食店を探すには役立つが、こと旅行に関してはYouTubeはまじに頼りにならない。今後旅先については自分の行きたい場所を自分の力で調べるということを強く心に誓った。
とはいえ道後温泉本館のシステムは新鮮だった。
本館では二つの浴場と、館内にある休憩室をどう使うかを掛け合わせた複数のコースに分かれており、いずれかのコースを選んでチケットを購入する。休憩室を使うコースを選択すると、まずは広い座敷に案内されて座布団とかごが付属した席を指定され、浴衣が手渡される。入浴して浴衣で座敷に戻ると、席でお茶とお菓子のサービスを受けられるのだ。
個人的な話だが、この旅の途中とあるきっかけでなにやらべとりと背中に霊的な何かが張り付いたように感じる瞬間があった。それから微妙に気分が悪かったのだが、神の湯につかった後その気分の悪さがふっとどこかに飛んで行った気がした。神の湯というだけあるというものである。
こうしたもやもやを抱えたまま帰途につくことになったのだが、最後にしまなみ海道を渡ったという思い出を持って帰りたいと思って、マジックアワーに合わせて海道沿いで四国に最も近い島・大島にある「亀老山展望公園」に登ったのは正解中の正解だった。この景色を見れただけでも、愛媛を選択した甲斐はあったと言っていい。
この旅、というか23、24日の2日間を通じてさまざまな教訓を得た。旅は予習が必要だということ、旅の目的地の構成は自らの頭で考えるべきということ、そして旅行中の食事に金の糸目はつけるべきではないということである。