瀬戸内海の要衝を抑える「今治城」をご紹介
瀬戸内海に浮かぶようにも見える、白亜の天守が美しい今治城。
瀬戸内の海上交通の要衝につくられたこの城は、「日本三大水城」のひとつにも数えられています。
堀には海水がひかれ、その幅は港のように広大につくられていました。
当時としては国内最大の船入を備えた、日本屈指の海城だったそうです。
また、現在の天守は模擬天守であるものの、藤堂高虎によって築かれた天守は、当時としては最新鋭の層塔型天守だったのではないかと考えられています。
今治城は、私にとっても以前主催した「城あそびオンライン講座」でもご協力いただいたありがたいお城。
講座をきっかけに今治城の歴史や特徴を知ることができ、あらためて訪れたくなったので数年ぶりに訪問してきました。
やはり事前に知識を得ていくと、観る場所も以前とは変わり、再訪問にも関わらず新鮮な気持ちで見学できました。
城の正面の入口には、「鉄御門」と呼ばれる立派な門があります。
その手前には昔「高麗門」という門もつくられており、城内で最も守りの固い枡形虎口が形成されていました。今でもその虎口の正面には、立派な鏡石「勘兵衛石」を観ることができます。
天守の最上階へ登ると、オンライン講座の中でご紹介いただいた「今治城AR」のアプリをスマホで起動。これを使うと、現在見えている景観が、江戸時代に遡るとどのように観えていたのかがよくわかります。また、見えている場所に当時何があったのかもわかるよう名称が表示されている工夫も素晴らしいです。
そんな今治城は、1600年の関ヶ原の戦いで戦功のあった藤堂高虎によって築城されたのがはじまりです。
高虎はそれまでは自ら築城した宇和島城を居城としていましたが、新たに伊予に12万石を加増されたことで、宇和島城には家臣の藤堂良勝を城代に任命し自身は今治へ移りました。
高虎がこの地に来るまでは、国府城が今治の支配拠点ではありましたが、海路を利用して藩の経営をより大きなものにするために今治城を新たに築くことにしたといわれています。
1602年からはじまった工事は、2年後の1604年には完成。
城の石垣は高いところで13mほどといわれていますが、それが砂浜の上に造られていることを考えると、当時からそんな技術があったのかとあらためて驚かされます。
1609年に高虎が伊賀へ移封となると、今治2万石は飛び地としてそのまま高虎の養子となっていた高吉が城主としてこの地にのこり治めました。
ちなみにこの高吉は、丹羽長秀の三男として生まれ、一時羽柴秀長の養子となるものの後に高虎の養子となった経緯があります。
1635年、伊勢国長島城の松平定房が移封となると、領地替えとして高吉は、最終的に伊賀国の名張へ移ることになります。
それ以降、明治維新にいたるまで、今治城は松平久松家の居城として機能しました。
明治維新後の1869年に廃城となり、ほとんどの建物は破却され、現在当時の姿のまま残っているのは、内堀と石垣のみといわれています。