発達障害という診断名を聞いたデメリット
発達障害という診断を受けた人なら分かるかもしれないが、診断名いる?って言われる場面が私にはあった。
ASDという診断はハタチを過ぎた頃におりた。
当時の担当医的には、それくらいの若くて将来もある人に診断を付けちゃうのはどうなのかってことだった。医者が付けなければ診断名はつかない、一応健常者でいられる。
大学の卒業が危うくて、「診断書を取っておいて特別処置が必要になったら出せるようにしましょう」とカウンセラーさんに言われていたので、多分私には診断名が必要だったんだと思う。だから私はASDになった。
後に典型的で濃厚なASDとADHDであると医者に言われることになるが、当時は軽度と考えられていた。
診断名が出てから、私はASDについて調べた。本やネットには、あれが苦手これが苦手って山程書いてあった。確かにその傾向は概ね私にも当てはまった。多少の自覚もあった。100%当てはまらなくても、10%でも当てはまると感じたら、診断名のせいにした。むしろASDはこうあるべきだと思ってしまった。何故か10%を100%にしようと。
書いてある項目に少しでも当てはまったら、その行動を制限をした。これが私にとっての大きなデメリットとなった。
コミュニケーションが苦手だからって、必要以上にコミュニケーションがいらない環境にしようと行動を制限した。新しい仕事も、コミュニケーションが多そうだったらなるべく避けた。一人でできる仕事をたくさんやった。
うるさい音が苦手だからって、映画館を避けた。人混みが予想されるイベントも避けるようになった。
新しい環境や変化は苦手だから、なるべくニュースや音楽などの新しい情報は入れないようにして、典型的なASDっぽい行動を心がけた。
今思えば、ASDの模範像になろうとしてた気がする。
そうして苦手と言われるものを過剰に避けるようになった。これはシンプルに機会損失だった。
もちろんストレスを予防する効果はあったのだと思う。
けれど、あの時誘ってもらったフェスも、飲み会も、出張の仕事も、やってみていたらって時々思う。
診断名が出てから何年も経ち、診断名に取り憑かれることをやめてから、とにかく色んなことをやってみてから判断するようになった。やってみて苦手なら、次回は対策を講じて臨むあるいは避ける。やってみたら意外と大丈夫だったこともある。
運動が苦手だった。自分の手や足がこの空間のどこにあるのか認識できないから、頻繁にぶつけるし、運動中のフォームが独特で変だと言われた。でも、ランニングをしてみたらかなり気持ちよかった。一人で走るからフォームとか気にしなくて良くて、ただただリフレッシュになることを知った。
大きな音は苦手だった。でも好きな人のライブは好きだった。沢山の人がいて大きな音がして確かに凄く疲れるけど、かっこいいパフォーマンスを見ると元気が貰えた。映画館で観る映画も最高だった。家でモニターを観るだけでは味わえない体験があった。MARVELシリーズ最高!
好きなアーティストがフェスに出ていたことも最近知った。昔チケット1人分余ってるのと誘って貰ったのに、人混みは苦手だからと断った。あの時行っていればもっと早くに出会えたかもしれない。もったいなかったな〜。
そんなわけで私は20代にやっておけばよかった経験をなるべく避けて生きてしまった。最近色々やってみるようになって、それが楽しいとか成功体験と感じられるようになったからこそ、それらの行動制限は勿体なかったと思う。嫌な思いは少なくて済んだのかもしれないけど、楽しい思いもしなかった。自分はASDだからって理由をつけて、やりもせずに苦手なんだと思い込んでいた。
もちろん20代までの人生も、成功体験を積めるような環境にいなかったから、元々機会損失人間ではあった。けれど、診断名がついてから行動制限は加速したと思う。診断名がつくまでは、普通の人になれるようひたすら過剰適応とマスキングをして必死に生きていた。診断名がついてからは、逆に典型的なASDでいようと変な過剰適応とマスキングをしていた気がする。とにかく自分ってものが無かった。誰かになるために必死だった。
だから、診断名が付いたデメリットというのは厳密には違うのかもしれない。元々私はそういう奴で、診断名がついたことで少し方向性が変わっただけでやってる事は変わらなかったと思う。
ただ、いずれにせよ私にとっていい事では無かった。
自分がない人間が診断名を得ると、それをアイデンティティにしたがる。特性を知りすぎてそうなろうとする。これは、デメリットと言っていいだろう。発達障害と知らずに生きていたら、まだ頑張れてたのかもしれない。たらればだけど。
福祉サービスの利用や配慮を求めるときに診断名は必要だと思う。でも、アイデンティティの確立に診断名はいらない。手続きに必要なものであって、自分の人生を制限するために使うべきものではないと思う。
最近ようやくそう気づけてきたから、これからの人生は今まで制限してきた分、嫌なことも楽しいことも沢山色んな経験をしたい。