好きなものの見つけ方
好きが分からなかった
好きな食べ物も、教科も、芸能人も、漫画も、本も、人も、
周りよりも高い頻度で何かをしていると、好きなんだねと言われることがある。
子供の頃、レストランへ連れて行ってもらうといつもエビフライを食べたがった、好きなんだねと言われた。ピンと来なかった。
毎日学校に行く人は学校が好きなのか、毎日会社に行くのも好きでやっているのか?頻度の高さを根拠に好きを語るのは無理がある。
ドーパミンやセロトニンが出やすいものというと捉え方もある。隣の家のゴールデンレトリバーと遊ぶとき、カラオケに行くとき、ランニングをするとき、、
ただそれだと、パチンコやお酒、イケメン、、こういう破滅的な行為も好きと解釈することになる。これらは遺伝子に組み込まれた欲求でしかない。
好きって相対的なことが多い。知っているものが多ければ、知らない時よりは分かりやすいだろう。
絶対的な好きも多分存在する。
一度も村を出たことがない人が、この村が世界で1番好きだと言えるのは、その人にとっての世界がその村だけだからだ。
若者が失恋に落ち込みやすいのは、好きになった経験が少ない分、その人が絶対的だから。
私はあまりにもものを知らなかった。今もだけれど。
エビフライと、ピザと、ラーメンと、カツ丼と、お蕎麦を食べたら、エビフライが好きかどうか分かったかもしれないのに、偏食が多くて食べたことないものは食べるのが怖かった。エビフライが食べられることを知っていればそれで十分だと思っていた。
絶対的な存在はたまに人を陥らせることもある。
吹奏楽部である楽器を吹いていた。その頃は、音楽もその楽器も好きでなければ行けないと思った。部活でもそれ以外でも音楽を聴くと、全て学びにして好きだと思わないといけないと心を縛った。その楽器に関する音楽を聞こうとしない私は、ダメなんだと落ち込んだ。今思い返せば、部活動をしている中で音楽が好きだと思ったことはなかった。
高校生の頃はある1人のアーティストの音楽を沢山聞いていた。むしろ彼の音楽しか聞いた記憶がない。新曲を聞かなければ、ラジオを全部聞かなければ、彼に関する刊行物を全て読まなければ、ファンじゃないと勝手に思い込んでいた。それでも、彼の音楽は当時の私に寄り添ってくれたのも事実だ。ただ彼しか見えていなかった。
エビフライも吹奏楽部も彼の歌も、当時の私にとっては絶対だったのだ。それしか、知らなかった。絶対的な好きが存在することも、根拠の無い好きがあることも尊重するが、私には根拠が欲しかった。
数年前、エハラマサヒロさんのインスタのストーリーを見た。将来やりたいことがないという方への回答だった。
「セパタクローで世界を目指せる素質があっても、セパタクローを知らないなら出会えない。たくさんのものに出会ってみないと、やってみないと好きも得意もわからない。」的なことを仰っていた(遠い記憶で自分の解釈も加えて書いてます間違っていたらすみません)。私はその時までエハラマサヒロさんのことをインスタで面白い動画を上げてる人くらいにしか思っていなかったのだが、このお話に随分感化された。
好きかどうかわからないなら、とりあえずやってみてから考えればいい。その時から、好きな物の作り方を知った。
簡単だった。好きかどうか分からなくても、コンビニで期間限定のおやつを買う。これだけでいい。
別に全部をおいしいと思わなくていい。5回に1回くらい、思っていたよりもおいしいかも、が見つかればいい。イマイチだったら、イマイチだったと思っていい。
これをするだけで、好きなものとそうでないものが探せる。私はイチゴが好きだし、あんこも好きだった。
そうやって、やってみたら発見できたという小さい成功体験をつめた。そうしたら、レストランで本日の日替わりメニューを頼めるようになった。イカスミパスタが美味しいことを知った。図書館で適当に本を借りた。ヘルマン・ヘッセが好きだった。出かける先も、新しい場所へ行くようになった。日本庭園が好きだった。新しい人と会ってみた。関西訛りの明るい人を好きになった。
たった数年間で、好きなものが増えた。何より、新しいことをするのは怖いことだけじゃなく、楽しいこともあるのだという経験を詰めた。
まともに育った人はこれを幼少期からやっているのかもしれないが、私はいい歳になって、やっとこれを始められた。
何かをいきなりやり遂げるのは難しいかもしれないけれど、コンビニで好きか嫌いかわからない商品を買うだけなら、難しくない。有難いことに企業努力でどんどん新しい商品を出してくれるし、口に合わなくても数百円の損失だ。口に合わないということを知っただけでも、好きなものをより好きになれる。トントンだ。
こうやって好きなものが増えた。あれに比べたらこれが好きという相対的な好きを手に入れた。ただ、根拠は見つからなかった。日本庭園なんて、教養がないからどこに文化的な要素があるのか知らない。季節の花が咲いて、水場があって、人が多くなくて、なんか落ち着く。そんなもんだ。
好きかわからないこともある。
私は、星野源のラジオを毎週聞いているし、彼の出した本も全部読んで良かったと思ったところをメモしている。プレイリストも彼の曲が多い。でも、自身をファンだと思っていない。友人にはそれはファンだよと言われるけれど、彼が載っている刊行物を全て見ているわけでも、彼のライブに行ったこともない。行ってみたいけど。
ファンとなると、全部見てないと行けない気がして、丸ごと愛していないといけない気がして。星野源という存在を好きだと言える勇気がまだない。それでも、彼のラジオと執筆は好きだ。
好きな物は増えたけれど、根拠を持つのは難しい。
ただ、あの時と違うのは、根拠は要らないと言えることだ。根拠が要らないと言えることに、根拠は無いのだけど、別に欲しいとも思わない。好きに理由はなくていいと思えたことが、何よりの収穫だった。
つぎは、何をすきになるだろう。