見出し画像

普通という前提

「お前は故郷を捨てたから」
これは大人になったある日、同級生に言われた言葉だ。
地元と呼ばれる場所、生まれて育った場所、出身地と呼ばれる場所、そんな場所で18年過ごして私は他の地で1人暮しを始めた。
家族と呼ばれる人間とうまくいかなくて、実家と呼ばれる場所も、その自治体を訪れることもなくなった。
その地域にも特に思い入れはない。そんなことをふんわり話したらそう言われた。
心外だった。捨てただなんて思っていない。元々持っていないのだから。
捨てることが出来るのは、1度でも所有していたことがある人だけだ。私には元々帰れる場所なんてない。故郷なんてものは、持ったことなんてないんだ。
だから捨てたって表現は間違いだ。

「早く治るといいね」
これは、発達障害と精神障害を告白した際に言われた言葉だ。治るってなんだろう。この前も少し書いたけれど、元の状態があって初めて治るべき状態が把握できる。
あなたが思う状態がインストールされていない人間に、治るもなにもない。私はずっと、私のままだ。壊れたんじゃない、元々揃っていないんだ。揃うって言葉も完全な状態を前提とした言葉だな。なんて言えばいいんだろう。

「家族と仲直りできるといいね」
これも家族のことを話したら言われた。仲直りだってそうだ。元々仲が良くないと仲直りはできない。私は家族と呼ばれる人間と仲直りはできない。できるとすれば、これから関係を構築することだろうか。彼らとそんなことをするメリットがない。お互いにお金も心もないのだから。

これらの言葉をかけてきた人に、そんな意図は無いのだろうし、私が屁理屈を並べて揚げ足をとっているだけなのかもしれないが、無意識に「普通という前提」がある言葉は多い。前提がないと会話が面倒になるから、そこを変える必要も、各方面に完璧に配慮する必要もないとは思うけれど、こういう言葉たちにほんのり違和感を抱く。
家があるから家出ができるという言葉を見かけた。確かにそうだ。家が無ければ出るも帰るもない。そういえば、一人暮らしをするようになってから家出ってしたことない。
なんとなく帰りたくなくてウロウロしたり遠出してみたりすることはあるけれど、当時家出をしていた頃と心境は違う。家出の家が指すのは、家があるかどうかじゃなくて、同居する人間がいるかどうかなのだろうか。

こうやって言葉の定義を探してより正確な表現を探すのは、すごくアスペっぽい。みんなそんなに気にしてないのだから、気にしなくていいのだろうけど、1度気になるとなかなか離れられない。普通を所有して産まれていたら、気にしなくて済んだのだろうか。アスペを捨てられても、普通は手に入らない。普通を捨ててもアスペは手に入らないと言ってやりたいが、そんなことをするメリットはこの社会にない。

みんなはどこで普通をインストールしたんだろう。どうしてこれをインストールしておけよって教えてくれなかったんだろう。みんなと同じ前提が欲しい。

いいなと思ったら応援しよう!