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高等教育授業料無償化 <白梅のちょっと立ち止まって考えてみたい>
高等教育だけが重要なのでしょうか?
私たち自身も教育や政治を考えたい
兵庫県知事と議会のごたごたに関心をもつ中で、県立大学の授業料無償化を前知事が実現していたことを知りました。ご自分が苦労なされた経験を踏まえた上での政策のようで、そのこと自体は前知事の大きな功績であることに間違いはないのだと思います。
ただ、‥‥。
以前から一部の国政政党が高等教育の授業料無償化を目玉政策として掲げていることに対しては、私は非常に疑問を持っていました。そして、それは今も変わりません。
私は、もともと熱く前向きで行動力のある政治家や政党を応援したいタチです。ただ、人生を重ねて長く政治の世界を外野から眺めていると、熱く「力」のある正義感に溢れた政治家や政党の政策も、行過ぎると「負」の遺産となりかねないということを感じるようになりました。
「力」を持った政治家は、世の中のためにいいことをしようと一生懸命になって下さっていることは間違いないでしょう。大変なエネルギーを要するであろう選挙を勝ち抜き続け、長年政治家としての自己研鑽を続けるということは、単なる私利私欲だけでは成し難いことであろうと私は思います。
一部の支持者の思いに偏ることはあっても、「国民のため」に政治に邁進して下さっていることは間違いないと思います。
ただ、力がある分、その力に頼ろうとする人や組織が回りに群がって来て、成すべき事もその限度を超えていくのではないか、と私には思われてしかたがありません。
そうしたことが繰り返されるため、「利権」をめぐる問題が常に政治の周辺に起こってくるように、私には思われます。
「力」を行使するためには闘争も生まれます。しばしば、何を成し遂げるための「力」なのかより「力」を得ることが目的と化してしまっているような政治家の方々の姿が目に付き、申し訳ないのですが、うんざりさせられことがよくあります。
一昔前までは選挙に「勝った」「負けた」が、国民自体の一番の関心事であったのかもしれません。政権側と反対勢力、政治理念を争うより感情に支配された泥仕合が当然であるかの如く国民自体が見做していたのかもしれません。
マスメディアも選挙の勝敗の動向をいち早くつかみそれを報道していくことに情熱を注ぎ、政権側のアラ探しをしてそれを批判していれば、ご自分達の責任を果たしているように錯覚していらっしゃるのではないかとさえ思われます。
世の中はどんどん変化しています。今のマスメディアは選挙の動向さえ掴みきれない状態です。スキャンダルばかりを追い、不満分子の声のみに耳を傾けて人の揚げ足ばかりをとるような偏った報道に終始しているように、私には見えてしまいます。そんな現状に国民は不満を抱き始めています。
問題の本質を見いだし、それを提起し、さらには解決の方向性をさぐっていけるようなジャーナリズム精神をこそ、国民は求め始めているのではないでしょうか。
ただ、マスメディアを責めてばかりいても世の中はいい方向にいかないことも事実でしょう。
今の政治や報道に不信感や不満をもってしまうのであれば、それは私達自身に問題があったからではないか、そう考え直して見ることが必要な時に来ているようにも思われます。
話を高等教育の無償化にもどしましょう。
国民の「力」の礎となる教育を
県立大学に対して、県主導で授業料の無償化が行われるのであれば、その県さえしっかりと税金投入の意義を見いだしつつ見守る体制を維持できていければ、そうした制度が悪い方向に行きにくいとは思います。
ただ、これを国レベルですることには、大きな問題が生じるように私には思われます。
大学側にとっても生徒にとっても、経済的な不安の軽減は安心感を生み一部の優秀な人材にとっては大きな恩恵があるかもしれません。
ただ、国レベルで行うといやが上にも日本ならではの悪平等がますます進むだけなのではないか、という危惧を私は禁じ得ません。
悪平等であるだけならまだしも、私は大学教育に対する過度の期待こそが日本社会の活力を削ぐように思えてなりません。
日本では義務教育を終えた後もほとんどの子供が高等学校に通うようになりました。が、今振り返れば、私のような優秀でない者が高等学校での「教育」から十分な恩恵や成長の機会を得られていたのか、と言えば否と言わざるを得ません。高校における授業そのものが私の人生に必要不可欠であったかと言えば、どうしてもそうとは思えないのです。興味もなくよく理解できない授業を一方的に受けさせられ、辛抱することだけを覚えた学校生活を過ごしていたように今でも思われます。
一方、私自身が望んでやりたかったことであるため、苦労をしてお金を稼ぎながらでも大学教育を受け続けることが出来ましたし、好きで学んだことは自分の血肉になっていることを実感しています。
今、多くの若者が大学へ行くようになりました。しかし、高校からの延長でなんとなく大学に進むことでどれだけのものを得ることが出来るでしょうか。私たちの頃に比べると、昨今は高校に通うように真面目に授業に出席している生徒が圧倒的に多いようです。ただ、高校で身に付けるべき教育が大学に持ち越されているに過ぎないという現状を伝える報道を目にしたことがあります。多くの若者にとって、社会に出るまでのモラトリアム期間が長くなっているだけに過ぎないのではないかとさえ、私には思われます。
0才から義務教育の期間までというならいざ知らず、高等教育に対して悪平等に無償化という形で貴重な税金を費やすことには賛同出来ません。
ただ、常に学びながら向上していこうという意欲は大変貴重なものであると思います。リスキリングも含め「学び」の重要性を自覚し、自ら進んで学びたいと願った時に、そうした機会を得られやすい社会を実現していくことの方がはるかに重要であるように思われます。
今、教育の無償化社会を実現しようとしている皆さんは、高等教育を受けるためにご自分自身が苦労されたり、また、高等教育を受けられなかったばかりに悔しい思いをしている方々の思いを受け止めていらっしゃる方々なのだと思います。
若者に高等教育を受けさせてあげたいという思いは、大変高い志であることに間違いはありません。
私自身も、教育の機会を逸してきたが故に時に不当と感じられる立場に甘んじていらっしゃるのではないかと推察される方を少なからず見てきました。学歴を重視した社会であるがゆえに子供に高等教育を受けさせたいと思う親御さんも今もって多くおられるのではないかと思います。
ただ、そこで広く浅くなりがちな高等教育の無償化の方向に走るより、たかだか二十歳そこそこまでの学歴を重視した社会の、人々の価値観を変えていくことの方が、はるかに重要であるように私には思われます。
外国人の受入れに摩擦が生じ反対する意見が多くなっている昨今ですが、外国人の受入れに向かわざるを得ないのは、ホワイトカラー偏重の価値観が日本人自身にいまだ根強いためでもあるのではないでしょうか。
多様性を受入れる社会というのは、教育という観点においても学歴偏重の価値観の上に立っていては実現しないように、私には思われます。
どんな職業に対してもお互いに尊重出来る社会に向かっていくことこそが重要であるように思われます。
SNSが発達していなかった社会において、高校や大学は「人」と出逢う機会を与えてくれる、自分の「社会」を広げてくれる、貴重な「場」であったことは確かだと思います。
一方SNSが発達した今の社会では、ワールドワイドに人と「出逢う」機会の可能性が確実に広がっています。その可能性というのは地域的な広がりだけではなく、年齢を越えた広がりさえあるのです。
何年か前、高学歴で社会的身分のある年配の方がネット上で知り合った方に直接会う機会をつくってみたら、その中のお一人は高校生であったなどといエピソードを聞いたことがあります。
教育の機会を全世代にチャンスを与えるという志には大いに敬意を払いたく思います。
ただ、学校教育だけにとらわれすぎない、世の中の価値観の変革をも含んだ視点があってもいいのではないか、と私には思われます。
もっと弾力的に「教育」や「人と人との交わり」の機会をつくりだしていくにはどうしたらいいのかを、考えて行くべき時代にあるのではないか。
そして、それは単に教育にお金をかけるということに終わらず、マンパワーを大切にすることではあるように、私には思われます。
「教育」は国民の「力」の礎です。理想を求めて議論していくことが、重要な分野であることは間違いないか思います。
2024.10.5