![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172533246/rectangle_large_type_2_b1f9fb4a2ebe173729830c78f77479ab.jpeg?width=1200)
歌舞伎NEXT『朧の森に棲む鬼』 考察追記 新橋演舞場 <白梅の芝居見物記>
新しい歌舞伎の「国崩し」
滅びない大悪が意味するもの
昨年12月、上演が始まったばかりの時期に松本幸四郎丈のライバージョンを拝見し、楽近くに尾上松也丈のライバージョンを拝見しました。
両方とも大変楽しませて頂きました。
ダブルキャストというのは、見る側にもいろいろ考える材料を与えてくださるものだということを再認識することが出来、ありがたい企画であることは間違いないようです。
すでに『朧の森に棲む鬼』に関しては昨年12月に書いているのですが、楽間近の方が芝居として練りあがってきていましたし、松也丈のライで松本幸四郎丈がサダミツに替わることにより、違った物語の側面が浮かび上がって来て大変興味深かったので、追記という意味で書いてみようと思います。
今回の上演において、幸四郎丈のライと松也丈のライが全く違う人物像を描き出しているという意見が、SNSでも役者さん方のコメントにも散見されました。
人物像として細かく見ればそうしたことになるのかとは思います。
ただ、お二人のライを描くアプローチの仕方が違っていたとしても、作品自体の問いかけているテーマが全く違っているように感じられることはありませんでした。
そういう意味では良かれ悪しかれ、一つのまとまった芝居としての骨格をもっている作品であることは間違いないのだと思います。
今回両方の舞台を拝見し、お二人のライの描き方の違いをよく考えて見ることによって、私自身大変勉強になり、様々なことを考えさせられました。
幸四郎丈のライが「歌舞伎NEXT」と銘打つこと、「歌舞伎」の作品として成立させようという強い思いをどれだけ持っていたのか、それがどれほど本作に反映されているかはわかりません。
ただ、幸四郎丈のライは確かに歌舞伎の「国崩し」の系譜にあることだけは確かなのだろうと、松也丈のライと比較することで、却って感じることが出来ました。
そう考えてみると、本作の幕切れも、単純な勧善懲悪で終わらせることの出来ない、人の世の厳しさを教える作品の系列に入れるべき作品と言えるのかもしれないと考えられるようになりました。
歌舞伎の古典である四世鶴屋南北作『霊験亀山鉾』のような作品が現に存在しています。
もっとも国崩しの役柄も歌舞伎作品では最終的に討取られるのが常ではありますが‥。
本作では、そこまで描くことが出来ない‥。あえて出来ないと申し上げますが、それが今の世の中の有り様を写しだしているようにさえ私には感じられます。
それは何故かと言えば、目に見えない小悪を飲み込みながら化け物へと変貌した大悪は、小善がいくら集まってもなかなか太刀打ち出来るものではない、と私には思えるからです。
大悪を滅ぼすためには、世の中を正常な状態に向かわせるためには、莫大なエネルギーをもった「鬼」が必要であること。
それを、図らずも本作は表しているようにさえ感じられます。
鬼を倒せるのは鬼だけなのです。
歌舞伎において、というより歴史上においても、実社会においても、単に善良なだけでは太刀打ち出来ない「悪」、平気で嘘に嘘を重ね人を踏みにじってのし上がっていくことができる無数の「小人」「小悪党」が存在することは確かでしょう。
結果的なのかもしれませんが、本作は世の中は表層的な綺麗事だけで渡っていけるほど甘いものではない、ということを思い知らせてくれる作品になっているとも言えるかもしません。
話は飛びますが、TVドラマ『半沢直樹』で、主人公が窮地を脱するために法に触れる行為をする場面がありました。それに対して今時の若者達が「コンプライアンス」に反することは自分には出来ない、というようなコメントをしているのを目にしました。
これが今の日本社会の現状です。
これでは大悪に立ち向かっていくことなど出来るわけがありません。
ライという化け物をつくりだすもの
ライという人物の悪逆非道さはどこから生まれてくるのでしょうか。
自分の欲望を満たすため他者を排除していくことに何の抵抗も感じない性行から生み出されると言えるでしょうか。
他者の痛みに対して徹底的に鈍感でいられる、いわゆるサイコパスな人間だからこそ、どこまでも突き進んでいくことが出来るのかもしれません。
また、そうした人物にストッパーをかけることを出来なくさせる、結果としてそうなっていくのでしょうが、悪を増長させ「大悪」へと育て上げていってしまう、それがまさに無数の「小悪党」達と言えるように、私には思われます。
正義感や誠意を持たない人は世の中にたくさんいます。ただ、世の中にとって脅威となるのは人が罪悪感を持たなくなることではないでしょうか。
罪悪感を持つことの出来ない状況に陥ること、と言っていいかもしれません。
小さな嘘や小悪も積み重なれば「国が傾く」程の、大きなエネルギーに変貌し共同体を破壊する方へ向かいます。
小さな嘘や罪悪感のない小悪の積み重ねが、ライのような野心家、もしくはサイコパスな人物に吸収されていくことによって莫大な大悪のエネルギーに変貌していってしまう、その恐ろしさに目を向けることも大切なように私には思われます。
本作においてエイアン国とオーエ国の争いには、その戦いの背景がきちんと描かれていません。そうした背景が必要とされていない戦いに過ぎない、ということも出来るでしょう。
現実の世の中でもそうした戦いはしばしば起こっていることではあります‥。
「善」側の象徴であるツナの信じる夫が、何故母国を裏切る行為に出るのか。エイアン国がライに乗っ取られるまでに腐敗しきっている。
それだけで世界観で十分だということなのかも知れません。
ここでは混沌とした世の中における「大義」なき争いが描かれているだけです。
そうした設定の中で殺るか殺られるかの戦争をしている。
相手を騙そうが騙されようが殺し合いをしている国同士の醜い争いにすぎない。どちらに取り入りどちらを裏切り、自らがのし上がっていくために自分が欲しいと思う物を手にするために、身方さえ裏切り抹殺しようが、ライのような人物にとってはどうでもよいこと。
こうした発想はどんな世の中においてもあり得べきことと言えるかもしれません。
この巨悪を生み出したのは、ライに力を与えた「朧の森」―混沌とした善悪の区別さえつけることが出来なくなっている世の中、巷の声と言えるのかもしれません。
幸四郎丈のサダミツで見えたもの
今回のダブルキャストにおけるライの人物の描き方の違い、印象の違いは作品解釈上に大きな違いを与えるまでであるとは私は思いません。
ただ、幸四郎丈がサダミツに回ることで、松也丈のサダミツでは感じられなかったものが印象深く感じられたので、そのことに関して少し書いて見ようと思います。
ライという人物がエイアン国内部に潜り込むまでのストーリーは、例えばそれば小悪党であっても「運」が良ければのし上がっていくことが出来るものだと私は考えます。
ただ、国の中枢で権力を掌握していくことは、そう簡単なことではないでしょう。政権の中枢にはやはりそれなりの百戦錬磨、一筋縄ではいかない人物がいるはずです。そうした中においてさえ政争に勝利していく姿を見せることは、ライの人物像を一段と大きく見せる上でとても大切になってくるのではないか。
そうした点で、幸四郎丈がサダミツに回ることにより、単なる面白可笑しな場面が入れられているというだけでなく、政争に勝利することの重さ、手にした権力の大きさがより強く感じられるのは間違いありません。
幸四郎丈のサダミツにより、片岡亀蔵丈のウラベ、澤村宗之助丈のアラドウジという敵役の存在感もより際立ちました。作品の厚みがグッと出たことは間違いないように思います。
現代においても、ライのような国崩しは倒されるべき存在であることは、間違いないでしょう。
ライを凌駕出来る「鬼」の存在を私たちは求めているとも言えます。
そうしたことが色濃く芝居の世界に表れてくるようになる世の中をつくり上げていくことは、私たち一人一人の責任ともいえるように思われます。
芝居から話がかなりそれてしまいましたが、
そんなことを考えさせられる問題作であることは間違いないと思います。
本日から博多座で本作が再演されています。残念ながら伺うことは出来ませんが、携わる全ての方々にお怪我のないように、無事に興行を終えられますようお祈りします。
また、今回ご覧になる機会を得ている幸運な方々には、是非とも役者の皆さんのカッコイイを満喫するとともに、作品自体にも様々な考えを巡らせて頂けたらと思います。
2025.2.4