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大学中退に至る事由 ① |高校での私

前回の自己紹介に際してのご説明通り、今回より大学を中退するに至った私の体験と経緯を物語たく思います。

この体験と経緯を披露するのは、私にとって不安と恐怖もあります。多くの方に私の不始末を申し述べるのですから、皆様がお読みになってどの様な感想を持たれるか不安なのです。
それでいて前回申し述べたように、これから取捨選択を重ね人生を初期設計していかなくてはならない学生の皆様のご参考に資するなら、また既に大人となられ、自らの人生を立派に歩まれておられる皆様の見聞として皆様の周りにおられる若い方へのご参考に資するなら、私が自らの内に隠匿した経験を披露することにも何かしらの意味合いもありましょう。

そして最後に大学を中退した私から、何某かアドバイスが出来たらと考えています。


この経験を話すにはまず私の高校生活を物語ることから始めなくてはなりません。

前回記したように私は歴史が好きで、高校生の頃は学内において歴史科目で右に出る者はありませんでした。その頃特に好きだったのはヨーロッパの近現代史(19世紀後半から20世紀初頭)と東洋史(シルクロードを通った仏教の伝播と仏教遺跡群)。
その私が大学を選ぶにあたって史学科を選ぶことは必然であったわけであります。そしてシルクロードの東の終着点で日本の都であった奈良・京都の環境を重視して関西の大学を選択することもまた必然であったように思うのです。

ですから、私が進路希望を定めたのは同学年の中でもかなり早かったと思います。担任の先生との進路相談の時間にはいつも
「白梅はやりたいことが明確にあるから良いと思う」
と言われていました。思い返せば中学生の頃にも担任の先生から
「白梅君の歴史や政治の知識は将来絶対に役に立つ」
と言われ、いつからかその方面に進むことが無意識のうちに自分の使命であると思い込んでいたことも、この時の自分の選択に影響していたとも言えましょう。

当時、進路相談の際には
「最近は(歴史の)何について調べてるの?」
「N先生(世界史担当)が白梅のことまた褒めてたよ」
といった会話もあって、いつからか進路相談の時間に私が最近学んだ世界史の知識を担任(英語)に逆授業して教えるという珍しい習慣が出来上がっていました。ただこれは私の担任が高校三年間ずっと同じ先生であったことの親密さに起因するのかもしれません。


ここで一つの差異に気がつきます。
進路を選ばなければならない時期になると、周囲の人の進路希望を耳にすることが増えます。私が通っていたのは私立の高校で、一学年だけでも大変な生徒数でしたが、私の周囲は押並べて全員が大学進学を目指していましたが、その大半が
「とりあえず進学するのが一般な選択なのだから、大学へ行く」
という考えでした。
この勉強をしたいから大学へ行く。
あの分野を深めたいから大学へ行く。
そうした動機で選んではいなかったのです。中には大学進学はしたいが自分がどの分野に進みたいのか見つけられない人もいて、私にはその心理はいよいよ理解出来ませんでした。

然し皆んなも大学進学を決めた以上、各々自身の好きな分野、得意な分野を選んでいることは疑いようのないことです。然しそうであっても自分の動機とは派生が違う、そう思いました。進学という種の木があるならば、その根の張り方が違うのです。そして私は自身の木の根はその他大勢の木の根より太く堅く丈夫であると自信していたのです。
また、そうであることが大学で有利であると自信してもいました。ただこの点は今日においても間違った認識であったとは思えません。

次第に私の内部にある自信が芽生え始めます。
「自分はただ惰性で大学進学する皆んなとは違い、明確な目的(歴史を学ぶ)を持って進学するんだ」
という自信です。そしてこの過信は大学進学後に私を非常に苦しめていくことになります。

今も時々考えることがあります。
「自分は何処で間違いを犯してしまったのだろうか」
「いつから歯車が狂ってしまったのだろうか」
おそらくたった一つの要因ではないのでしょう。様々な要因が複雑に複合しているのかもしれません。
然しもし現在に至る過ちの始点があるならば、或いはこの瞬間、つまり「皆んなとは進学に対する意志の立脚が違う」と自信したあの瞬間ではなかったか。そう思うこともあります。


明確な目的を持って進学せんとする私を多くの先生が支援してくれました。三年間一緒の担任は勿論。世界史の先生方、私が所属した文芸部の顧問で国語科の担当でもあった先生、図書委員として懇意にさせていただいた図書館司書の先生、その他にも数名の先生方。
他の生徒の事情を詳しく知っていたわけではないけれど、私の肌感覚としては、私と同等かそれ以上に多くの先生方から支えてもらっていた生徒はそう多くは無いと思います。

私の通っていた高校は県下随一の進学校でもなければ特段の名門校ではなかっただけに、私の様な「斯斯然然を勉強したいからこの大学へ行きたい」という生徒の存在は先生方にとっても応援し甲斐があったのではないかと思うのです。特に司書の先生には我が子の様に親身に支えていただいた。

ここには書ききれない多くのご支援の数々が私の記憶に今も明瞭に存在し、感謝してもしきれない思い出の日々です。


私は無事、志望していた京都の大学に合格しました。
報告を聞いた先生方の歓ぶ姿に一寸びっくりしたこともありました。
特に思い出深いのは、担任の先生。大きな声を出したりすることはなかったけれど
「良かった。良かった」
と言ってくれた時の情影は私が幾つになっても色褪せないでしょう。

これは私が高校二年生の時に不登校ぎみになった時をよく知っている担任であるが故に、合格報告をした時の私と担任の間に生まれた空気は特別なものになったのだと思います。今振り返ってみると先生がおめでとうを繰り返すのではなく
「良かった」
を繰り返していた理由も少し分かったような気がするのです。高校二年のあの頃の私の状態を思えば、高校を卒業出来たことも驚くことと言えましょう。

然し今申し述べておりますのは、大学中退に至る因でありますから、私が高校二年生の頃に不登校がちになった話は気が向きましたら物語たいと思います。


こうして改めて振り返っていると、高校の三年間が私の人生で最も赫赫たる日々であったかもしれません。確かに二年生の頃は辛い日々もあった。然しそれを乗り越えたという点においては胸を張って屹立も出来る。三年に入ってからは、文芸部の活動として県高文祭に出品した作品が表彰され、図書委員としての活動も司書の先生のご推挙により県から表彰され、受験勉強もその行き着く帰結は兎も角も、合格した点においては必ずしも無意味ではなかった。

私は夏目漱石が大好きなのですが、漱石先生の『虞美人草』に大混雑する博覧会の場面で次の様な一節があります。

來る人も往く人も只揉まれて通る。足を地に落す暇はない。樂に踏む餘地を尺寸に見出して、安々と踵を着ける心持がやつと有つたなと思ふうち、もう後から前へ押出される。(中略)
小野さん丈は比較的得意である。多勢の間に立つて、多數より優れたりとの自覺あるものは、身動きが出來ぬ時ですら得意である。

夏目漱石『虞美人草』


私は特殊な技芸を持った神童でもなければ学内においても屈指の優等生というわけでもありませんでしたが(それどころか、理系科目は目も当てられない)、文芸分野と図書分野で公に評価されたことで、と言うのも、文系を文系たらしめる最も純度の高いこの両分野で表彰されたことが私には意味あることに思えたので、『虞美人草』に倣って言えば小野さん同様「得意になっていた」と言えましょう。

然しそうであったからと言って、高校生の頃に得た栄典の誉までが私の中退に至る因子になったなどとは今日においても思いたくありません。
私が部室や図書館で過ごした日々は、その窓から眺めた景色や僅かな匂いの記憶を含めて大切な思い出であり、その環境で生み出した作品や活動の成果という青春の結実した果実の美しさまで、大学中退という一事の為に腐らせてしまったと自ら卑下する必要もないはずです。



次回「大学中退に至る事由 ② |大学入学と新しき環境」

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