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言葉を話せる子供、話せない子供、自分のこと

近頃の次男は「大きなトラック」が好きで、帰り道に通るか通らないかをよく訊ねられる。
そんなのもちろんわからないので、「どうだろうね、通るといいねぇ」と適当な相槌を打つ。
たまたま三台通り過ぎたところに出くわす。と、後ろから「あったー!!あったね、あっちにもいるね、こっちにもいる!」と興奮した大声。
仕事でヘトヘトの帰路のことで、わっ、なんだ!と思うも、ああ大きなトラックがそんなに嬉しいのかと思うとまだまだ子供らしい無邪気さに頬が緩む。どこにでもある子どものいる日常という感じだけれど、やっぱり物を言うということはすごいなと思う。服の好みも出てきて、以前は黙って着ていたはずなのに、今の彼のセンスからすると気に入らない服を勧めると「やだよー、着ないよ」とか言われてしまう。
7歳になる長男にはとうとうただの一言「お母さん」と呼ばれることもなく、おそらくこの先も言葉は喋れないと言われている。そういう育児をしていたからこそ、自分の気持ちを言語にしてくれることのありがたみや不思議さに圧倒されそうになることもある、小憎たらしいときもあるけれど。
次男を長男の代わりにしたいわけではないけど、それでも言葉の持つ力ってとても大きいと思わずにいられない。
だからといって長男に意志がないわけでも言いたいことがないわけでもないことはもちろんわかる。
前回の面会のとき、何の気無しに次男と長男こ手を繋がせた。長男は次男のキーキーした声が苦手なようで、騒ぐと耳を防ぐから、あんまり好きではないのかな?と思っていたし、次男は次男でマイペースだから、手なんか繋がないかもと思いきや近くの公園まで手をつないで歩いていた。一度次男が手を離すと、長男が次男の肩をつつき、手を差し出してきた。「手離してるよ、繋いで」と言ってるようだった。職員さんによれば小学校に上がり、級友と手を繋ぐような場面も多くあることから、習慣として身についたんだろうということで、いかにも長男らしいと言うか、割ときっちりした彼のもともとの性格と、ルールありきの集団生活は意外と相性がいいのかもなと思った。言葉を持たずしても、こちらに訴える力もあり、昔みたいに泣いたり、喃語のような声をあげるのではなく、こんなふうに教えてくれるのだな、と驚いたりもした。
定期的に診てくださっている、児童精神科医の先生も「子どもの成長はすごい」とおっしゃっていて、とはいえいわゆる定型の7歳と比べたら、なにもできないと言えなくもないけど、それでも日々学んでいるんだなとはっきりわかる変化を感じられて、その言葉に頷かずにはいられない。

7歳の長男も、4歳の次男も、目まぐるしく変化している。今もそうだけれど、喜ばしいこともあれば、頭を抱えるようなこともある、この先しばらくはその連続だろうと思う。こういうことを当事者として話す相手がいないのは自分にとって大きな痛手だなとしみじみ感じている。
こんな子どもたちを手放して平気な、愚かな人間には、彼らの小さな変化がどれだけ大きな意味を持つかなんてわからないだろうから、隣にいてもきっとおんなじことだろうとも思う。
長男次男、わたし。
家族のなかで、わたしだけがウジウジ燻ってる。二人に恥じない人間になりたいけれど、どれくらい頑張ればそうなれるのかな。


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