陸軍部内に於ける「昭和維新」―五一五に至るまで

日本主義に基づく革新運動―いわゆる昭和維新の機運から、陸軍は諸事件を引き起こした。部内での対立関係から「皇道派」が形成され、やがて血盟団事件、五一五事件、二二六事件といった諸事件へと繋がっていく。

背景

長州閥への不満

大正末年~国家改造叫ばれ、各部門に革新的機運が自ら生じた
→陸軍部内にも波及、因襲慣行の革新が第一目標
 人事其の他に支配的力を有していた長州閥に革新機運向けられる
  長官が閥外出身でも、人事網・諜報網利用し、長州閥の部下統制不可能に
 田中義一政界進出後、傍系宇垣一成が陸相となり権勢
 →この頃から長州閥打倒運動が盛んに
 宇都宮太郎、武藤信義、真崎甚三郎荒木貞夫ら計画進める
 佐官尉官級にも機運。永田鉄山が中心、一夕会として運動を組織化
  方法:各自が優秀な成績挙げ、一方人事網を打破し、後継者進出防止
  →相当期間防長出身者が陸大に入学しなかった

民間に於ける革新思想の影響

デモクラシー思想流行、社会主義共産主義思想保持者が入営、軍内部で思想宣伝
当時の軍部内でこれを克服し論破する理論有する者なく対策に苦慮
→民間に頼り、諸学校に招聘。大川周明満川亀太郎講演
 軍部・民間革新分子の連絡、軍部全般に日本主義思想扶植

その後、デモクラシー・平和思想で軍縮論流行
 軍人志望減少
 政党内閣による陸軍大整理
 軍隊教育と相反する民主主義、個人主義思想風靡
⇒行地社、大学寮等日本主義者による国家革新思想が軍部内に浸潤

軍備縮小に依る刺戟

政党政治家、民衆の好感を買う好題目として、平和軍縮運動取上げる
山梨陸相~宇垣陸相期、陸軍整理縮小
 人員経費削減し、節約分は装備改善、空軍拡充等近代化に利用
失業者出すも、政党政治家は同情を怠る
→軍部一般憤激、山梨宇垣は政党と通じていると悲憤する者も
→青年将校に急進的革新分子輩出
  三十七期(菅波三郎ら)中心に、西田税(三十四期)、渋川善助(三十九期)など

天険党事件

首謀者:西田税
参加者:陸軍青年将校
目的:「日本改造法案大綱」に基づく日本の「合理的改造」
経過:
 士官学校で北一輝と関わった西田が日本改造法案大綱に共鳴
 西田の軍職退官後、軍縮熱・軍部蔑視風潮による思想的社会的不安に関心あった士官候補、少壮青年将校が、彼に解決を求め接近
 →西田、自宅をかれらに開放(士林荘)
 北より「改造法案」の版権を譲渡され、同志に頒布
   「法案」流の改造計画*は西田を通じ軍部内尉官級青年将校、周辺の民間有志に浸潤→後の諸事件の手段を規定
 昭和二年、西田、軍部民間の少壮革新分子を糾合し、国家改造団体の結成計る
  彼等に「天険党規約」配布
 →憲兵隊に知られ弾圧

「改造法案」の計画
 国内政治組織を転覆し、天皇中心の近代民主制、私有財産制限
 手段=クーデターし戒厳令施行、その間に大詔渙発仰ぎ、一挙現行政治機構停止、在郷軍人団を以て改造

兵火事件

首謀者:大岸頼好(仙台教導学校の青年将校)
目的:東京鎮圧、天皇奉戴、不正罪悪(宮内官、華族、政党、財閥、学閥、赤賊等)を摘出し、国民の義憤心興起
経過:
昭和五年頃~、大岸が急進的青年将校の糾合団結と、蹶起を促す
陸海軍を覚正し、軍部以外に戦闘団体組織
 最初の点火は民間、最後の鎮圧は軍隊による
 改造方法の相違は重大事項とし、躍進的革新信じないものは排した
憲兵隊に知られ弾圧

三月事件

参加者:桜会
 昭和五年九月下旬、陸軍省参謀本部の少壮将校(中佐以下)中心に二十数名で発起
 参謀本部露班長橋本中佐、志那課長重藤大佐、第二部長建川少将、軍務局長小磯少将など

計画:
昭和六年二月中、内閣糾弾の大演説会議会に向かってデモ、決行の場合は偵察的準備
三月、労働法案上提の日に、民間側左翼右翼一万動員、八方より議会にデモ
政民両党本部、首相官邸爆破
各隊に抜刀隊設置、警官の阻止を排除
軍隊を非常集合、議会保護名目に包囲、交通遮断
将校が議場に入り、宣言を行い、総辞職決行
宇垣に大命降下するよう策動
 閑院宮殿下、西園寺公に使者を送る

経過:
昭和三・四年頃~、陸軍少壮将校、議会政治、政党政治に反感
ロンドン条約、統帥権干犯問題以降一層激烈に
 議会中、幣原の失言で乱闘→国民世論は議会否認に傾きかける

宇垣が田中を追って政党に入るとの噂
 →大川が本人に問い詰めると「考えは微塵もない。政党には憤慨、改造しよう」
六年二月、参謀本部らと宇垣の相談成立
 →他に露見し、表面上中止
その後も、ひそかに大川と小磯が準備
三月十日、小磯が中止と言い出すが、大川は続けたい意向
 →頭山満、建川の賛同得て、三月二十日決行予定
三月十八、大川と親しい徳川義親侯爵が中止勧める
 →中止、計画は挫折

挫折の要因:
・宇垣の変心
改造運動に乗り出す意思あったが、政界の有力方面から宇垣を首班とする内閣樹立持ちかけられる
 政権獲得後に改造を考え、大川・小磯と接近避け脱退
⇒右翼竝軍部に執拗な排斥受ける一原因に

・陸軍部内に於ける時期尚早論
岡村寧次、永田鉄山ら時期尚早と反対
 先に満蒙問題解決

・部内の連絡不完全
事件の首謀者…主に参謀本
尚早論者…主に陸軍省

影響:
・陸軍少壮階級が、将官階級に至るまで政党反対・革新気分有することを知る
 将官階級は、年配・境遇により、彼らによる改造は期待できない
 少壮階級は、老人連中は自分に責任が及ばなければ従ってくるだろうと認識
⇒運動の中心は若い将校に
・改造手段の前例に
・一般の改造運動に大刺激
・熱度高まり十月事件
 上部より参加求められた桜会急進分子は消化不良

満州事変

排日機運、権益侵害加速する満鉄の実情を無視した幣原の演説に軍部反感
昭和六年八月、軍司令官及師団長会議で、南陸相、世上の軍縮論に対する反抗、満蒙問題に関する政府の無気力非難
→政府部内に衝撃
陸軍、外務当局と対立しつつ急速的積極的解決方針進める
桜会急進派、満蒙問題解決せよと全国の軍隊に檄
柳条湖が引き金となり蹶起
革新的機運の影響も見られる
 「軍部側の今日迄研究せる新満蒙対策」に反資本主義的内容

十月事件(錦旗革命)

首謀者:参謀本部一部中堅将校、大川周明
参加者:
将校在京者 約百二十
近衛各歩兵聯隊より歩兵十中隊、一機関銃中隊、歩三より約一中隊(夜間決行の場合殆ど全員)
大川及びその門下、西田税・北一輝一派、海軍将校抜刀隊横須賀より約十名、霞ヶ浦海軍爆撃機十三機、下志津より飛行機三四機

経過:
 大川「老人加えては駄目だから自分らで」
重藤、橋本(欣)中佐、板垣(征)少将、土肥原大佐ら、大川と繋がる
「満州の形勢は日本の軟弱外交で先行き不明、外交に任せられない。帝国の面目潰すようなことあれば武力でこれを引きずろう」
満州事変勃発→内地の政治もこなせない政党政治に満州まで任せられない
→クーデター計画
  二十数か所攻撃、一気に政権打倒、軍部にが政権奪取し独裁体制
  参謀本部陸地測量部に改造本部、錦旗革命本部と書いた旗立てる予定だった
  三月事件と異なり、デモはやらない
  →当時は一般世論が必ずしも軍部支持でなかったが、満州事変以後革新的気分各方面に反映
十月十八日、暴露され挫折
影響:
大規模であったため軍内の革新機運刺戟
一般民間側革新分子にも影響
 軍内に一大革新勢力あると知り、好機到来と呼応
 →井上日召一派、立花孝三郎一派、事件で同志を待機状態
 →挫折しても翻らず、自ら先んじて捨て石となり軍部を決行に引きずろうとした
  →血盟団、五一五事件の一原因に
大川対北・西田が決定的対立状態へ
 事件は大川主導、成功すれば対立する北西田不愉快
 北西田、表面から反対しないが、青年将校に計画の巧拙、大川の個人問題を批判
 →大川にバレ「北・西田は革命ブローカー」と反撃
 ⇒両派の反目激化
 北西田、策戦に加担はするが心から賛意せず
 橋本の片腕長勇少佐、酔って西田方に短刀抜いて威嚇
 →両派の関係甚だ悪化
 計画失敗し、両者疑心暗鬼
⇒北西田終世迄対立
 以後、二つの対立した流れ作り、諸事件に影響
幕僚と隊付き青年将校との分離
 隊付き青年将校…大岸頼好(兵火事件)、末松太平、菅波三郎ら(天険党)
  昭和初年より革新運動
  計画には加盟したが、先覚者である自負から批判の目
  長州閥打倒時代からの苦悩
  橋本ら幕僚は既に天下掌握したかの如く大言壮語、連日料亭
  →憂国の至誠でなく、権勢慾?
  ⇒両者は次第に分離、皇道派清軍派(統制派に近い)形成
全将校に啓蒙的役割
 後に二二六事件に連座する大蔵、安藤らに革新思想植え付けた
  初めは橋本中佐の下にあったが、事件中の行動から、菅波、末松の影響ける
 →彼らを通じ、直接西田と接するように
 事件の失敗を見て、この様な心構えでは革新できないと考え、革新の根源を国体に求める
 →国体原理派形成、皇道派(荒木陸相一派)支持し密接関係(同一視する場合も)
 後の五一五事件の士官候補生らも参加
  大半はこの事件により革新思想抱く
  菅波、権藤、井上とも面談
 →五一五事件の原因に

永田軍務局長刺殺事件

犯人:相沢三郎中佐
背景:
 十月事件~、宇垣系没落→「革新派」の台頭
  首脳者橋本中佐らと尉官級少壮青年将校は分離(前項)
 
天険党事件以前よりの革新分子+十月事件契機の青年将校→十月事件後合体⇒皇道派形成
  荒木陸相を支持推進、部内革新→その圧力で陸相通じ国内改造目指す
  三月・十月事件の方法は「国体反逆」、「自己中心主義の国家社会主義的改造方針」
 荒木陸相、十月事件首脳幕僚将校を満洲等へ転出
 宇垣系の徹底的左遷
 →一部部内より、その黒幕とみられた真崎甚三郎教育総監ら諸将軍に反感
 人事に憤激する十月事件首脳中心に排撃運動(清軍運動)→清軍派
 統制派、真崎を更迭
 皇道派、この人事巡り憤慨、「粛軍に関する意見書」はじめ怪文書頒布
 この影響を受けた相沢、真崎更迭は永田の策だと決めつける
 七月十八、相沢は永田に面会し辞職勧告→その意思ないと察知
 八月二十、軍務局長室で執務中の永田鉄山少将に、相沢が軍刀で襲い刺殺




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