血盟団事件の背景と概要
血盟団事件とは、井上日召こと井上昭が中心となって起こした暗殺事件であり、五一五事件の契機となったものである。ここでは、事件に至る背景と概要についてまとめる。
井上日召
開業医の三男
東洋協会専門学校を二学年で中退後、明治四十三年渡満
陸軍諜報機関となり、翌年発生した支那革命及び、後に青島戦争などに参加
滞在中、木島完介、本間憲一朗(五一五関係者)、前田虎雄(神兵隊関係者)の盟友得る
大正九年末頃帰国、日本の現状を知る
「社会主義者の増加、極左翼の横逆、労働大衆の赤傾、指導階級の兇暴、無自覚等々」「呪わしい感情」抱く
帰国後、木島に左翼の横暴に対抗して労働運動の先頭に立つことを勧められるが、自己修養に専念する為、猶予を求める
大正十三年九月、修養を終え上京し、国家改造を遂行する為、各方面廻り国家情勢とこの対策を知るに努める
まじめな学者、宗教家その他心有る識者は一大改革断行の必要ある状況とした
大衆は不景気に苦しみ社会主義的風潮に感染し国体観念を漸次失い革命を期待
→現状打破し国家改造を決意
血盟団事件に至る諸運動・諸団体
大正十四年春ごろ、田中光顕伯秘書・高井徳次郎とともに護国聖社組織
田中伯、朝日奈知泉を顧問に
信仰生活により国体観念の高揚計る「精神的国家改造運動」
→資金集まらず失敗
健康問題で郷里群馬へ
農村の窮乏に胸打たれる
その間、同年十月ごろ、志那滞在以来の盟友(木島完介、本間憲一朗、前田虎雄)と新日本建設同盟設立
それ自体特筆すべき活動せず、テロ手段も考えず
→ただしこの関係が血盟団、五一五事件、神兵隊につながる
大正十五年、赤尾敏、建国会創立
前田虎雄が理事に
井上、本間、有力な地方会員に
→井上、前田、会の目標が世間的であり、真の国家改造を計るものではないとして脱退
前田は自己修養の為地方へ
井上は、高井の勧めで護国堂に入る
日蓮宗の寺院であるが、ここを運動の拠点に
昭和三暮~五年十月
小学校訓導・古内栄司を同志に
彼を通じ小沼正、菱沼五郎ら小学校教員竝農村青年に同志獲得
→自身の国家観を与え、法華経の題目を唱えせしめ、その教義と現代社会との比較、革新的思想を注入
⇒大洗組なる革命団為す
明治維新に於ける水戸藩士の勤王精神に倣い、昭和維新は水戸の手にてと自負
海軍側との提携
昭和五年一月ごろ、「一洗会」の会合に井上、藤井斉も招かれ、両者知り合い提携
一洗会:茨城県庁学務課・金鶏学院(安岡正篤)門下野口静雄が、水戸学研究会会員の一部と組織した革新的団体
井上は、同志を倍加的に増やし、合法的な改造を志向したが、藤井斉から不可能を説かれ非合法テロを決意
その後井上は、藤井統制下の海軍青年将校と関係深める
→藤井の九州転任後、井上が海軍側同志の中心となり、右派の大同団結計るべく上京を求められる
上京後、金鶏会館に寄宿
その繋がりで、学生らを同志に
陸軍側其の他との提携画策
ロンドン条約問題以後、改造運動者は一九三六年(同条約有効期限)までに改造成就せねばならぬとの声
井上、藤井と交わりこれに同感
井上が暗殺手段採用した理由
同志が少ない、資金皆無、武器兵力無い、言論機関が敵、現状は一日も早く烽火をあげねばならない
藤井が親しくしていた西田税に接近
北一輝、満川亀太郎、大川周明にも面会
北、大川の大同団結計る
九州革新分子との会合で菅波三郎らと知り合う
藤井の紹介で、東陸軍少尉(菅波とともに九州の中心人物)、大岸頼好中尉(東北の中心人物)と懇親
三月事件の情勢を知り、改造着手を決意
北・大川の和解画策するも、北幕下の西田税が大川を非難したので、この情勢では両者の提携不可能と認識
藤井一統が西田と親しいため、大川とは結べず、西田の擁立決意
西田は当時不遇
日本国民党脱退余儀なくされ、天険党以来大岸、菅波とも不通
三月事件以後、海軍側同志はより急進的に
昭和六年四月、呉の古賀清志ら、横須賀の伊藤亀城らが金鶏会館訪れ、井上を呼び会合、決行促す
→井上、八月に支配階級の巨頭連が避暑地に集った際、暗殺を提案、軍資金と武器の調達を海軍に求める
→海軍側同志の決意を試すためで、実行はせず
同年七月末、「満州で事を起こし、同時に国内改造を行う」陸軍によるクーデーター計画知る
→井上、真の日本的のものに非ずして政権奪取をもくろむ覇道的のものと観察
西田に計画打破の意思告げる
→西田「北に相談するから待て」
西田、十月事件首脳橋本中佐と交渉
井上は、上記計画に同志と参加し、役割分担によって発言権獲得、日本精神に基づくものになそうと画策
八月二十六日、両者統制下の革新分子の結束堅くし、計画に対処すべく、郷詩社の名目で青年会館で会合
陸軍側 菅波、大岸、東ら
海軍側 藤井、三上、古賀ら
民間側 西田、井上、小沼、菱沼ら
都合三、四十名
今回の会合では、中央本部、責任者を決定したのみ
→数か月の軍艦生活を強いられ、顔をそろえる機会少ない海軍側同志は、急速の決行希望していた為不平不満
→井上、これを察知し宴会、彼らを慰撫、連日、家で会合
井上日召の十月事件への参加
大川「満州で事起こし日支関係悪化、対支貿易阻害し経済界圧迫、これを契機に内地民衆を扇動、東京大阪で暴動誘発、翌年二月に議事堂襲撃、クーデター行う」
藤井による調査でこれを知った井上は、計画を批判
「革命は仕事ではなく道…政権を奪取するのではない。革命の為に動乱を起こし無辜の人間を殺す如きは言語道断」
同年九月、満州事変勃発、陸軍クーデター計画中を知る
→青年士官、血判をして満州事変解決要求し、受け入れられなければ蹶起すると首相、陸相、参謀総長に提出したとの情報
改造潮流は静止し得ぬ状況に
井上、計画の一部分担
遊撃隊として目標人物暗殺引き受ける
後、計画変更、大部隊出動による一斉襲撃、個人的暗殺は行わず
菅波一派、次第に大川、橋本らに批判的に
大岸は大川と近く、菅波大岸一派は西田と近くなかったが
藤井を通じて井上と親しく
→井上の斡旋で西田、大岸、菅波親しくなる
⇒十月事件で、菅波、西田一派の関係、加速度的に接近
十月事件挫折、橋本一派は暫く活動不能に
首脳者橋本中佐以下十数名が重謹慎処分の名義で最高二十日程度各地の憲兵隊長官舎に分宿させられ、後地方に転勤命ぜられた程度
それ以外の関係者には何の処分もなし
→海軍側同志、及び西田、菅波一統に、この挫折で打撃受けず
今回は陸軍大勢力の動向に便乗しただけで、以前からの決意に動揺なし
→以後は便乗ではなく、海軍側自ら主導で
西田、菅波一統はその後俄かに態度を変化し、従来提携合った井上一統及び海軍側の勧誘に応ぜず
満州事変により国際情勢緊迫の際国内改造を計るは時機に非ず
井上一派は、事件後も西田、菅波一派と共同し、陸海民間の連合軍で蹶起する気でいた
海軍側「この豹変は西田の指導、彼は慢性革命家、ブローカー」
→川崎長光による西田狙撃
陸軍側態度変更の要因:
事件後、内閣更迭で荒木陸相出現
軍内粛清(閥打倒)運動の一有力者、改造運動の理解者。若い将校に慕われる
鹿児島時代の菅波も、当時熊本第六師団長だった荒木から知遇受ける
→青年将校一派に時節到来感じさせる
これを契機に自己革命、後に国内改造
海軍・民間側単独蹶起
昭和七年一月、海軍側、民間側同志集う
民間同志と海軍側同志合同し紀元節を期し政財界特権階級の巨頭暗殺決定
藤井其の他地方の海軍同志にこれを伝達する為、四元を派遣
同月二十八日、上海事変勃発、藤井以下海軍側同志出征
二十日までに帰郷予定の四元が、二十五日過ぎても帰来せず、消息なし
行動を憲兵隊が尾行し捜査しているとの情報
→四元帰京またずに決行
同月三十一日、民間、海軍側同志会合
井上、二案を提議
一、失敗を期し直ちに実行
二、陸海軍の凱旋俟ち、連合軍組織して実行
⇒出席同志全部第一案に賛成
まず民間側が直ちに実行に移り暗殺
海軍側は第二陣として同志の凱旋をまって陸海連合軍で第二次破壊作戦(→五一五事件)
古賀、中村両中尉は民間側の実行に参加希望したが、井上承認せず
一陣は失敗を期すもので、海軍は保留したい
井上準之助、団琢磨両名暗殺
井上日召ら、頭山満三男の経営する道場に潜伏
官憲により同志相次いで逮捕、頭山宅包囲
第二陣の組織を受け持っていた井上日召も自主
血盟団事件参加者の一覧
・古内栄司
大正十二年三月茨城県立師範学校卒業後同県下に訓導として奉職、一時神経衰弱症で退職
昭和三年、那珂郡前渡村前浜尋常小学校訓導に復職
在勤中、立正護国堂に出入りし井上の思想に共鳴、大洗組の中心に
・小沼正
那珂郡平磯町尋常高等小学校卒業後大工の徒弟、店員
昭和五年初め、帰京し古内栄司の指導で御題目修行、次いで立正護国堂に出入り、井上の感化受ける
・菱沼五郎
前渡村に生まれ、昭和四年十月、岩倉鉄道学校卒業後、就職の途なく帰郷
小沼同様井上の同志に
・黒沢大二
前渡村に生まれ、同村高等小学校卒業後、家で農業に従事
前者らと同じく井上の同志に
・四元義隆
鹿児島市に生まれ、明治維新勤王家の血を享ける
第七高等学校造士館入学、在学中、日本精神涵養を目的とする七高敬天会組織
昭和三年、東京帝大法学部入学、上杉慎吉の七生社同人となる
上杉死後、安岡正篤の金鶏学院に入り井上を知り思想信念に心服
・池袋正釟郎
都城市も生まれ、第七高等学校入学
四元は柔道部主将で、彼は剣道部主将、終始行動ともにし敬天会組織
三年、東京帝大文学部入学、金鶏学院通じて井上の同志に
・久木田祐弘
幼少期より、日置郡伊集院町の母の実家で生長
昭和三年、第七高等学校に入り敬天会同人に
昭和五年末頃、菅波を知り田倉利之とともにどの指導受ける
翌年、東京帝大文学部入学、七生社同人となり井上の同志に
・田中邦雄
鳥取市に生まれ、松江高等学校
昭和五年、東京帝大法学部入学、七生社同人となり、四元、池袋久木田等の関係により井上の同志に
・須田太郎
福島市に生まれ、昭和五年國學院大學神道部入学、学内の日本主義研究会会員に
久木田を介し井上の同志に
・田倉利之
鹿児島市生まれ、七高等学校敬天会同人
久木田とともに菅波の指導受ける
昭和六年、京都帝大文学部入学、学内の日本主義思想団体猶興学会同人となり井上の同志に
・星子毅
熊本県鹿本郡稲田村生まれ、第五高等学校
昭和五年京都帝大入学、猶興学会同人、田倉の紹介で井上の同志に
・森憲二
朝鮮群山府生まれ、第六高等学校
昭和六年京都帝大法学部入学、猶興学会同人、田倉、田中の紹介で井上の同志に
・伊藤広
今泉定助主宰の日本精神奉ずる教科団体日本皇政会理事、事業部担当し皇化運動に従事
井上一派を知りその計画知る
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