【五首選+α】長谷川麟『延長戦』
現代短歌社賞の選考会や栞文その他でまだ取り上げられているのを見ていない歌に絞って五首選です。
視聴覚室のカーテンにくるまって思えばずっと秋だったこと
p. 15より。
カーテンに包まっていた昔から今までのことを回想していると読んだ。視聴覚室のカーテンは確か、遮光性の高い、分厚いものだった。だから、外界を遮断する膜として機能する。その膜の中にいれば、夏の暑さも冬の寒さも感じずに済むだろう。でもそれゆえに、感じられる季節はずっと変わり映えすることなく「秋」のままである。それはカーテンに包まらなくなった今でも変わらない。
恋人が私を好きでいてくれる不思議にずっと宙に舞う猫
p. 65より。
句切れなしで読んだ。「ずっと宙に舞う猫」というフレーズは、ただの跳躍ではない対空時間の長さを思わせる。サーカスのトランポリンで跳ねているのか。いや猫ってサーカスで跳ねるものだったか。はたまたファンタジーの世界で浮遊しているのか。現実味のない、地に足のつかない感覚を受け取って、それが上の句にかかる。「実感のなさの実感」が伝わってくる表現だと思う。
釣りをした思い出だけが何となくあってそこへは辿り着けない
p. 104より。
連作の流れからして、幼い頃に、今は亡き父と一緒に釣りをしたことを詠んだ歌だと思う。昔のことでよく覚えていないから「辿り着けない」という面もあるだろうけど、仮に地名や行き方を覚えていて「物理的に」辿り着けたとしても、その頃のことが鮮やかに甦るわけではないのだろう。そして、「あれってどこだったっけ」と問えば答えてくれるはずの父は、いなくなってしまった。これからも、「思い出だけが何となく」存在し続けるしかない。
泣きそうになることすらも減ってきてウツボのような顔をしている
p. 178より。
自分の表情を鏡で見て、そこに自分の心のあり様を感じたのかなと思う。下の句の比喩は意外性があるし、それよりも先に凄い説得力を感じた。ウツボのあの小さく、丸く、感情のない目が思い浮かんだ。
それっぽいポーズを取って、と手を振っている 君のほうが絵になっている
p. 215より。
間の作り方が良いと思った歌。「手を振って」を三句扱いにして5・8・5・8・7で読むと、四句(いる 君のほうが)に字余りと一字空けが同時に来て窮屈に感じる。なので、「手を振っている」を三句扱いにして5・8・7・6・7で読んでみる。四句は一字空け込みで7音と考えてもいいかもしれない。すると、三句(手を振っている)の字余りで上の句の認識がたゆたう感じが出て、そこから少しの空白を経て、下の句の感慨が浮かんでくる。漫画の、何も描かれていない真っ白なコマが置かれているような感覚だった。
その他
歌集という単位での評価が高い本作、せっかくなので、歌集という流れの中でポイントになっている?と思った歌をいくつか挙げます。
痛いとき素直に痛いという顔ができるからボブ・サップが愛おしい(p. 122)
観覧車の小高い丘を登り切り、ようやっとその乗り場が見える(p. 163)
あなたとは恋じゃないから続いてく気がする テレビを見てて思った(p. 225)