【五首選】北辻一展『無限遠点』
例によって天邪鬼五首選です。
医師たちの弁当搬入されており霊安室に近き玄関
p. 19より。
弁当が運ばれてくる。食材の命は予め奪われ、調理も済み、箱に詰められ、あとは箸をつけて食べるだけの状態である。他の命を奪わなければ生きてはいけないはずなのに、そういうプロセスは全て省略されて「食べる」という体験だけが商品として提供される。人の、かたや避けえなかった死の近くで繰り広げられる、この生活は何なのか。
マウスにもわれにも等しくある命エレベーターで加速度を負う
p. 23より。
実験用のマウスを持ち運びながらエレベーターに乗った場面だと思う。実験動物にも自分と同じように命がある。忘れがちな事実かもしれないが、驚く、というよりは、確かに、と思う。でも単に知っているだけでなく、本当に実感として思ったのでなければ、この下句は出てこないと思う。
産み落としたるもののごとくにわが胸にふかふかとした祖父の死はある
p. 71より。
祖父の葬儀の後の場面。「ふかふかとした祖父の死」は骨壺を収めた袋のことと読んでもいいかもしれないけど、ここは「産み落としたる……」から始まる流れの延長上で、もっと抽象的なものをイメージしたい。身近な人の死と向き合うことは、「その人がもういない日々」を、苦しんで産み落とすことと同じなのかもしれない。そうして生まれた「ふかふかとした」ものを胸に抱きつつ、これから何とか育てていくのだと思う。
夢に深く青がまじりて起きる朝妹の焼く魚が匂う
p. 74より。
いわゆる「ブルーな」夢を見たのかなと思う。尾を引くような夢だったかもしれないが、目覚めれば生活は続く。続けざるを得ない生活の象徴が焼き魚の匂いなのだと思う。その匂いは、そこから先は生活という境界を感じさせつつも、境界を越えるときの痛みをいくらか和らげてくれるような気がする。親ではなく妹が焼いているところに逆説的な説得力がある。
庭撒きのホースより出る水熱し七十三度目の原爆忌なり
p. 100より。
夏の炎天によって、ホースの中の水までがひどく熱くなる。その水温が「七十三度」だと言われても納得してしまいそうである。と思いかけて読み進めると、実は温度の話ではなかった。でもただの勘違いだとは思えない。この「水熱し七十三度」という語の配置は意図的ではないか。ホースから出た水と、原爆が落とされた日の川の水や人体の水がつながるような感覚があった。