連作を読んだメモ:吉川宏志「渚、夕なぎ」(『青蝉』新装版より)(再投稿版)
※以前投稿したものを修正して再投稿しました。
一首丸ごとの引用を避けつつ全ての歌に順に触れていきます。
冒頭の歌。
規則正しく花を咲かせる植物に喩えられているのはどういう出会いなのか、可能性を3つほど挙げてみる。
必然の=運命の出会い。
当たり前の=平凡な出会い。
その生物に生来備わっている性質による=本能に操られただけの出会い。
連作を最後まで読んだ後だと、3つ目の意味合いが濃いと感じる。
冒頭の歌としては、さてどういう出会いでしょう、という謎かけになっていると思う。
性愛の場面。
何故「さびしさ」を感じたのか。
それは、人間の身体の働きの中には意識や知性ではコントロールしえないものがあることを悟ってしまうからではないか。
自分たち二人が遺伝子の乗り物だと感じてしまうからではないか。
このように、性愛と結びつくような形で本能の働きが描写される。
性愛の場面では、「眼鏡」を外す必要があった。
「眼鏡」は文明や知性による小細工と捉えているものの喩だと思う。前述の本能と対置されている。
そして脱ぎ捨てられた文明の先には〈空〉がある。
この〈空〉は終盤で再登場するけど、遺伝子の乗り物としてではなく、意志的な存在としての自分が抱く何かしらの理想の喩のように思える。
その理想とは、言ってしまえば、二人の関係が本能に仕組まれただけのものではないと示すことなのかもしれない。
「腹を押しつけて」くる圧力をもった「闇」の正体は、性愛へと向かう本能ではないか。
「サマーセーター」も文明の喩のように思える。
それを着ることで肉体を覆い隠し、束の間、文明の世界に戻る。
それでもやっぱり、「入れ知恵」や「ことば」程度の知性の働きは小細工にすぎないと感じている。
「君を得た日」においてもそうだった。
蝉が鳴くのも本能や性愛のためにすぎないのか。
その声に「静電気の」ような痛みを感じたのだと思う。
ここで「臍」という生殖の痕跡が提示される。
異性愛者である自分の性愛と生殖本能との間に深い関係を見るからだろう。
そして「アダム」にさえ、あるはずのない生殖の痕跡がある。
自分たち二人は結局、生殖本能とのつながりを絶つことはできない。
そして生殖の痕跡と重ねられている「ひるがお」の気配は、そこらじゅうに満ちている。
「ことばで問える」範囲は限られていて、裏を返せば、ことばや知性では立ち向かえない世界もあることを、「海」までの道で確認する。
また、「寝顔」は意志的には作り出せないものであることも知る。〈睡りつつまぶたのうごく……〉の歌がフラッシュバックする。
こうして知性の限界を悟りながら近づいていく〈海〉は、全てを呑みこむ存在であり、母胎のシンボルでもある。
これまで生殖を繰り返してきた生物の歴史に自分たち二人も続こうとしている、ということだと思う。
積極的に影を踏むつもりはなかったのに、気がついたらそうしてしまっていたのかもしれない。
そして、そうこうしているうちに「貝」にたどり着いてしまった。
「貝」は生々しさや肉体性のイメージを与えるし、性欲のシンボルとして知られてもいる。
そして「貝売る店」を過ぎれば、〈海〉にたどり着くだろう。
「空」が、意志的な存在としての人間が抱く何かしらの理想の喩だと感じた二度目のタイミング。
〈海〉に背を向けて、〈空〉を掻いている。
でも「空(そら)を掻く」は「空(くう)を掻く」とも読めて、虚しさを感じさせる。
そして「背から」翳っていくのは、身体が半ば〈海〉という存在に呑まれているからである。
「少年」が見ている〈空〉もいつかは暗くなり、〈海〉との境が消えていくのだろう。
これだけ外を歩いているのに「日焼けしない」相手。なんと超然とした存在であることか。
美しく聴こえてくる〈海〉の音もまるでその身体の中から発せられているようだった。
依然として自分たち二人の関係と生殖本能のつながりは分かちがたいけど、この一首ではどこか、それを少しだけ肯定的にも感じていて、連作の一首目の時点とはスタンスが変わったような印象を受ける。
諦めるのでもなく、抗うのでもなく。
一度絶望したからこそたどり着いた境地があったのだろうと思った。