町田康『告白』ー重さもテーマも重量級の一冊
私は、詩や短歌、小説を書ける人が羨ましい。
書いている行為そのものがうらやましいのではなく
書いている中身を頭の中からひねり出せているという
表現力と感受性と構成力とかそのへんひっくるめて
うらやましい。
同じだけ時間を与えられて
きっと似たようなものを見たり聞いたりしてるはずなのに
私はなにも感じられずに通りすぎてしまう。
翻って作家さんたちは、たくさんのものを受け取って言葉にしている。
だから、本を読むたびに異世界を見せてもらい感動しつつ
あぁこの世界を書けることがうらやましいと思う。
さて、今回読んでいた町田康さんの『告白』は、
量も質も重い、重量級の本だった。
単行本で約700ページ、テーマは「人はなぜ人を殺すのか」。
友人に勧められた当初は、その厚みとテーマに怯んだが
口コミ通り、作者のときに軽妙な語り口と
ぐるぐると思考がめぐりめぐり進展しないかと思えば
グングンと突然進んでいく、起伏にとんだ妙な物語展開に
必死に食らいついていたら読み終わった。
告白の書評は素晴らしいものがググったら出てくるし
アマゾンのレビューも集まっていて
この本の面白さを改めて私が感想として書くことは
蛇足以外のなにものでもない気がする。でも書く。
本のなかには、この描写いるんかい?
あいつどうなったん?なんのために登場したの?
てか、あの話立ち消えていますけど、どうなったん?と
ついていけない部分もあった。
あまりに仔細に描かれる日常にほーっと感心していたら
突然に始まるファンタジー的話の展開に、
なんだか新しい本のなかに無理矢理放り込まれたような心細い気持ちになったり
主人公、熊太郎のエンドレスに廻る蟻地獄的思考に
こんなことを考えて書くって、作者の頭んなかどうなってんねんと
客観的に考えてボーッとすることもあった。
それでも、なぜかおもしろいと思うのは
この物語の中身と見せ方が、くせになるからだと思う。
共感とか、心地よさはなくとも、先に進みたくなるページをめくりたくなる。
今とは明らかに違う時代を生きる熊太郎が、果たしてこの出来事から変わるのか、
何を学ぶのか、この話がどう収束するのか知りたくなる。
好奇心が刺激される。主人公の予測不可能な行動を見たくなる。
前半部分で丁寧に熊太郎の成長と心情に迫ったからこそ
読む側の私は熊太郎を応援、というか、なんとか熊らしく生きて欲しいような気持ちになった。
後半に現れる宿敵、極悪非道な熊次郎に負けてほしくない。
正しいのは熊太郎、お前だ!いいやつだ!だから弥五郎と頑張れ!と
肩のひとつといわず、背中だって叩いてやりたくなる。
そして熊太郎が時おり陥る思考のループに不安になる。
このまま道を踏み外すのか?熊は本当は変人なのか?
熊次郎にまた銭を取られはしまいか?というか、妄想癖があるんじゃないか?
熊次郎ってやっぱり森の小鬼・・・?と心配になってしまう。
もう夢中だ。自意識にまみれ、他人からの見られ方を今更という年になっても気にしてしまい、
情けは人のためならずと変に人に親切にしたかと思えば、
借金を返せず親に肩代わりさせるほど金もないくせに、美人に首ったけになり盗人となる熊と、
相当頭が切れるうえに何だかんだいい奴であり、ちょっと危なっかしい退廃的な香りのする相方の弥五郎に。
・・・すごいな、と思う。
こんなとんでもない話を、ダレることなく書き上げてしまう人はすごい。怖い。
熊太郎の頭のなかと現実がつながらないように、現実にもその絶望を感じている人がいるのかしら。
そこまで純粋で真面目だからこそ、踏み外す人は救われない。
いるのだとすれば、彼らは何にすがるのか、宗教か?それとも人か?
ただ、仲間がいることは救いがある一方、破滅の助長にもなりえる。
んんん、特別であるということは、危険なことだ。
特別な人はすぐ死んでしまう。
ゴッホもそう。パスキンもそう。もっと、生きてほしかった。
完全に頭が他にことにいきそう。
でもやっぱり、熊太郎や弥五郎がそうであったように、
一瞬の命をパッと燃やすように生きる人の生き方は
すさまじい生命感に溢れてる。ついていけないけれど、惹き付けられる。
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