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本谷有希子「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」

「自分が何者でもない可能性など、ありえない」
その自負だけを原動力に女優を目指している澄伽が
両親の事故死をきっかけに、妹の清深、兄の宍道、その妻待子のいる田舎に帰ってくる。

暴力が日常化している夫婦関係、
過去のトラブルが原因で執拗に妹をいじめる姉...
両親の死を感じさせないほどの異常な環境下で、歪んだ兄弟関係が複雑に絡み合うこの小説は、
それぞれが抱える秘密の重さと深刻さとは裏腹に、テンポよく話が展開するお話だった。

決して明るく元気が出る話ではない。
どちらかと言えば、暗く、家族の崩壊に近い話だ。

自分に嘘をついて、騙し騙し守っていた「家族」という枠組み。
偽りあっていた「家族」を構成する「個人」が、各々本当の姿を表したとき、
今まで保たれていたはずの家族関係は決壊する。

コップにいっぱいいっぱいまで入った水が、
一度の大きな振動によって簡単にこぼれてしまうように。
こぼれた水は戻らないように。

でも、それは、各々が前に進むためには通らないといけない道、通過儀礼。
一番怖いのは、真実に気付かないまま突っ走っていしまうこと。

自尊心とかプライドとか、常識とか同情とか
そんなメッキがはがれた瞬間の絶望感と解放感を感じた。

だからこれは、暗いけど、希望のある話。


私は基本的に暗い話が嫌い。
わざわざ時間を使って読むのに、気持ちが塞ぎ混むようなものは読みたくない。
ただ、暗い話といっても、話のトーンが暗いのは構わない。
単純に人の嫌な部分だけを誇張して書かれた暗い話が嫌いなだけ。

別に性善説をとってほしいわけではない。
イジメみたいな人間の悪の部分を書くのをやめてほしいというわけではない。
ただ、その人間の悪が表面化する原因や背景を、丹念に書いていない話が、嫌いなだけ。

たまに脈絡も背景もなく、ただただ読み手の気持ちを下げてくる小説がある。
怖いもの見たさなのか、自分より不幸なものを見て安心したいのか
そういった本が売れるのを見ていると、気持ちが塞ぐ。

この「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を読み
改めて絶望を書くことの難しさを感じた。



ところで、この小説で異常なほど田舎になじまない澄伽は、
「自分には女優として評価されるに足る特別な人間だ」という根拠の無い圧倒的な自信を持っている。

ただ、その自信の向く先が、客観的に見て論外だったとき、第三者はそれを滑稽だと笑う。バカだなー、と。

でも、心底笑えるだろうか?

澄伽のこの思考は、滑稽ではあるけれど、どこか他人事には思えなかった。
誰しもが持ってしまう自己愛。自己愛の暴走は滑稽なのだけど、結局かわいいのは自分だし、自分を根拠なく愛してくれるのは、自分。自分だけは自分を裏切らない。


人知れず音楽を作ったり、小説を書いたり、絵を描き続けたりするためには
それらがいつか誰かに認められ、夜に出て評価されることを夢想し続ける必要があると思う。

もしくは、自分には人に評価される物を作れるのだ、という自負や
これを通して想いを伝えたいのだという熱意が必要だと思う。

宍道のように自分を自制しすぎるのも実は滑稽。
清深も実はその後姉と同じ道をたどるかもしれない。
結局、一番幸せなのは、すべてを諦めた待子なのか?

ぜひ読んだ人の感想が聞きたい・・・

#本
#読書
#本谷有希子

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