鯨の感覚世界 〜叙事詩『月の鯨』第一の手紙(13)〜
すったもんだの末に仕留めた抹香鯨
長々とけだるい引き揚げ作業の末
その恐るべき巨体が甲板に寝かされた
傾いでいた船はようやく均衡を取り戻したのだが...
〈わーお〉
その海の王者の姿を目の当たりにすれば
鯨捕りの魂が揺さぶられる
オレはその不思議を記さずにはいられない
〈おおお〉
抹香鯨の首の幾何学的均衡美については
あまたの書物に描写されているところだ
ところが眼についてはどうだろう
首の側面のずっと裏側 はるかにはるかに下の方
そこに仔馬のような無睫毛の小さな眼を発見することができる
諸君にも身に覚えがあることだろう
視像とは左右二つの眼の感覚の合成である
君は常日頃、眼前にひとつの光景を見ていると錯覚しているが
ほんとは右の視像と左の視像が合わさっているのである
(ふん、だが、しかし...)
こんなに素っ頓狂な位置にちっぽけな眼がついていたら
前方の対象を見ることができるわけはない
左右の視像は決して合体することがないだろう
彼らの見ている世界を想像してほしい
摩訶不思議な世界が360°に展開することだろう
そう きっと
中央には虚無の秀峰が聳え立ち
その右側と左側に
真っ二つになった二つの映像が現れる
それはどんな光景なのだろう
おそらくは我々との格闘の最中
鯨がしばしば示す理解しがたい運動は
我々の想像の埒外にある感覚世界に起因するものなのだ
(私は常々思うことがある
これからの詩は魚類や昆虫類に同化して書かれるべきだろう
惰性化した人間中心主義が打破されなければ
詩は永遠のようにつづく停滞から抜け出せない
人類をおののかせる新しい詩は異形の感覚から構築されるのだ)
〈ヤメレ オレは新しい詩なんぞに関心はないぞ〉
この視覚の分裂は鯨に何をもたらしているのだろう
彼らは二つの視野を比較考量しつつ
人間をはるかに超える総括的・統合的判断力を持つに至ったのか
あるいは
左右の矛盾がただひたすらなる惑乱をもたらしているのか
〈ヤメレ オレは小難しい動物心理学なんぞに関心はないぞ〉
鯨の耳だって奇怪さにかけては眼に負けちゃいない
彼らは耳たぶなんてものは持っていないが
目の後ろ側に極小の穴が空いている
羽根毛一本すら通すことのない神秘なミクロの穴だ
こんな小さな穴で何を聞いているというのだ
イカズチの轟音を奴らは感じることができているんだろうか
〈何いってやがんだ
何でもでかけりゃいいってもんじゃない
大伽藍のような耳を持っていたって役立たずのガランドウかもしれないぜ〉
これからオレが語ろうとしているのは
月から降臨した鯨の物語だ
奴は月の鼓動を眼でもなく耳でもなく
全身で感じているのだ