感情のためこみグセは筋膜リリースでほぐせるか?【前日記録】
「筋肉には記憶がありませんが、筋膜には記憶があります。」
この言葉には思い当たるふしがある。
誰の言葉かというと、今わたしが注目し、更新を楽しみにしているnoterさん、はたらくたぬきち問わず語りさんが以前に受けた、筋膜剥がしのセラピストさんの言葉だそうだ。
詳しくはこちらの記事を参照していただくとわかるのですが、人が何かを経験したときの姿勢を筋膜は覚えている、とのこと。
もう少し分解すると、運動や楽器演奏などの体の動きを伴う反復行動が上達する理由とそこそこ関係があると思っている。
身体感覚と感情や知覚の一致があった上で、上達・向上する楽器演奏を長くしていたからこそ、この感覚に覚えがあると言ったほうが正しいのか。
とにかく、良くも悪くも姿勢と記憶はかなりリンクしているようにしか思えない。
例えば。
デスクワークをしている際の電話対応やお局さんの無責任で毒のある一言などで感情がマイナスに揺れ動いたのをぐっとこらえた記憶があるとしよう。
同じ席に座ったときだけでなく、部屋で机に向かって勉強をしていたり、時には映画館で似たような姿勢で座り力が入っているとき。
その時の感情がフラッシュバックして、どうにも抑えきれなくなることはないだろうか。
完全にオフのときにやってくるフラッシュバックはたまに、理性で対応しきれないときもある。
映画の内容が後半1時間、頭に入ってこなかったり、寄せては返す激情の波にのまれ、机に向かっても集中できなかったことはザラにある。
そんな場に長く居ざるを得なかったのには理由があるのだがそれはさておき、そこから離れた今ですら、似たようなモラルの低い言葉や声質にすら一瞬で構えてしまうほど、じっと我慢をしていた時期があり、それを今でも体が覚えている感覚がある。
言い返してやりこめることが勝ちだとは思っておらず、同じ舞台に立ってやりあってしまうことこそが、わたしにとっての負けであった。
その人たちからしたら、言い返されないから自分が『勝ち』だったのだろう。そうゆう言葉の使い方をする人たちだった。
長期的に見て、その場所にいた人たちと馴染まないことこそがわたしの『勝ち』だと信じていたから、どんな言葉にも我慢し、気持ちの良い言葉を返した。
もっといい居場所を知っているからこそ、感情をなるべくシャットアウトし、口角を上げ、目元には笑みを浮かべた。
わたしがその場を離れるなんて思いもせずに、完全に安心しきり、身内で甘え合い、馴れ合っている人たちが交わす態度や言葉は、あまり綺麗なものではなかったものの、そこを離れる覚悟があったからこそ、最後までできるだけ穏やかさを保っていたとも言える。
その場を離れひと成果上げてからは、その人たちからのこちらを見る目が変わり、滅多な干渉こそなくなったものの、日々蓋をしていた感情は、疲労の蓄積とともに間違いなく筋肉を凝り固めている。
このたぬきちさんの記事を読んでからその自覚が一層増し、「あぁ、こうゆう形の治癒があるのか」とひとつの答えを見つけられた安心感がある。
未だ石のように凝り固まっている筋肉をほぐせば、わたしの記憶や心もほぐれるのか。
目先の勝ち負けや警戒心とは距離をおき、より柔軟な心で毎日を過ごし、演奏したい。今あるのはその一心。
たぬきちさんは猫背が治ったという。知人にもかなりの猫背がいたが、接しているうちに姿勢よく歩き、笑顔が増えた人を知っている。
言うまでもないがこんな風に、その人の姿勢や骨格まで悪い方へ変えてしまっていい権利なんて、誰にもない。
できたら、わたしは、その人の一歩先を照らせる人でありたいし、読み終わった後に自信を持って進みたくなる、自分の足で歩き出す覚悟ができる、そうゆう文章を書きたい。
同じ言葉でも、人を受け入れ、癒し、成長させる使い方を選びたい。ままならないこともまだまだあるけれど。
セルフケアとして、ストレッチや軽いマッサージ、ジョギングやウォーキングをしてきたけれど、もう少し手っ取り早く楽になりたいので明日、整体にて筋膜リリースの施術を受けてきます。
わたしもおもひでぽろぽろして、すっかり温泉に浸かりきったような心と体になったら、毒を体にためこんでしまっている人すら解毒して癒す文章を書ける日が、いつかくるだろうか。
人を攻撃や威圧して傷つける強さではなく、人を守り成長させる強さを、そんな言葉の力の強さを持ち続けたい。