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遥か遠くに来たからこそ、確認できた“自分のルーツ”とその肯定

年々無理がきかなくなるよね、なんて話をするなんて思ってもみなかった約20年前の私たち。

高校時代の友人と、何年かぶりに会い、買い物をした。

仲良し4人グループのうちの2人だったけれど、それぞれに相方がいたから、かつてこの2人で話すタイミングは、帰り道の某乗り換え駅の改札口だった。

その乗り換えの駅にあるデパートにて、当時と変わらないテンションで(ウインドウ)ショッピングをし、私はいわゆる“オフィスカジュアル”に頭を悩ませていた。

学生時代のように、時間は有限ではないことを知り、こうして時間を作って会うことに感謝ができるようになった私たちが迎えた時間は、なんと有意義なものだったのか。

それぞれに苦労があり、悩み、それでも一歩を踏み出し続けた年輪が、顔に現れる年にもなった。

大学は異なる地域だったし、成人してから顔を合わせるのは数えるくらいしかなくなっていたけれど、会って言葉を数回交わすだけで、あっという間にあの頃に戻る。

その素直さとゲンキンさを確認しながら、近況報告合戦の応酬が続くなかで、わかったこと。

それは、決して綺麗事だけでは生きられないことを知り、悩み、悲しみ、右往左往もしたけれど、結局のところ私たちは、会わない時間も言葉を交わさない時間も、より良くなる方を選択しながら生きてきた。

もともとの持っている健全さを損なう出来事は一時的にあっても、今の立ち位置に納得しながら生きている、なんならより良くなろうと努力を重ねている私たちの表情は、そのフロア一(いち)に輝いていたに違いない。

それを確認し合えただけでも今日の収穫とも言えるけれど、何よりも、私の色濃い実感としてあるものは、「自分のルーツを肯定しきれた」ということ。

いや、今までが肯定しきれていなかったわけではないけれど、それぞれの歩調で歩いているにも関わらず、きちんと立ち戻るところに立ち戻り、その経路を確認し合える仲間がいること、お互いの判断力を信じ切れること、忖度なしに褒めあえ、讃えあい、認め合えること、それができるなんて、サイコー過ぎる。

避暑地やリゾートに行かなくても、キャラメルパフェとコーヒーと、お互いの精神性だけでこんなにもラグジュアリーな気分になれるなんて、なんてかけがえのない友人だろう。

そう、彼女の明治神宮での華やかな挙式のときもそうだった。

彼女の積み重ねた「素直さ」や「徳」が、燦然と表れているような、心洗われる式だった。

その頃はまだもがいて苦しい中にいた私だが、こうして自分なりに返り咲いた姿を彼女に見せることができて、本当に嬉しい一日だった。

「可愛い」と「美味しい」の連呼


新しい職場では、「隙がなさそうな◯◯さん」と言われるが、どっこい、こんなにもスキだらけでふにゃっとへらっとしてるところもあんねんで。

色々と話しきって、リフレッシュというより一皮剥けたような感覚と、これまでを俯瞰しきれたような腑に落ち加減は、昔馴染みとしか味わえない感覚。

それなりに、腫れ物でもありひりひりの青春時代を共に乗り越えた絆って、時間が経っても色褪せないどころかこんなにもどっしりとした基盤になって、私を支えてくれるものなのね。

真面目に素直に、たまにへらっと、地に足つけて生きてきてよかったなぁ、とまた思いたいので、明日からまた、自分自身だけでなく周りの誰かの心地良さまでクリエイトできる素敵な女性を目指します(はぁと)


そして今夜のプレイリストはこちら。

当時お付き合いしていた彼の影響でどハマりし、今でも心の名曲として残る、The Yellow Monkey の「Brilliant World」。

大切なものを再確認させてくれて、ありがとう、という気持ちが彼女に届きますように。


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