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青春が平凡を文学に走らせるのか/日記

青春ってなんだろう。

ぼくは短歌が大好きで、読んだり、詠んだりしている。今日はそんな大好きな短歌の研究をしていた。
言葉の悪い癖で、「研究」と書くと、さもすごいこと、誇らしいこと、難しいものをイメージするが、そんなもんじゃなくて、ただ単に気になる疑問をぼくにしては珍しくまじめに考えてみただけだ。

どうも調べてみると、(過去5年間に限った話だが)「短歌」ということばが注目されるのは、夏らしい。
別に夏だけというわけでもないけど、毎年最も注目度が上がるのは、夏であることがわかった。
自分調べなので諸説ありというか、ありまくりというかの夏に何があるんだろう。
夏といえば、海とか、懐かしさとか、青春とか。ありきたりな「らしさ」みたいなものがよく浮かぶ。

青春は夏でなくともやってくる。のに何故、夏になると短歌がぐっと注目されるんだろうか。
ぼくの適当な思考の中では「青春だから、短歌が注目されるのでは」という考えが浮かんだ。夏=青春で、青春にこそ何かを記録したくなる。
記録する媒体として、「短歌」という文学媒体が選ばれている。のでは?と。
確証のようなエビデンスのようなものは存在しないけど、仮にこの考察があっているとしたら、なんて素敵なことだろうかと考えた。
青春が、夏が、ぼくらの平凡な日常を文学にする。文学にさせる。
文学にしようと、少しでも言葉にしようとする行為はなんて素敵なものなんだろうかと。
伝わりにくい比喩をするならば、クリームソーダを飲む前に炭酸のしゅわしゅわを見つめる動きに似た素敵さを感じる。

青春という、見えない概念で人は言葉に触れたくなるのだ。

そんな美しさを早速詠んでみました。
「青春は君だけのものではないの。だから言葉でぼくだけのものに」

 青春を考えていたら本日が終わりました。今日は映画を2本見ました。決して暇なわけではありません。
そして。してみたい企画ができました。
 明日こそ日記になるかな。

おわり

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