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夜逃げする時、家にある本を一冊だけ持っていくなら、どの本にする?

「無人島に一つだけ持っていけるなら、何にする?」

 その人の価値観が浮き彫りになる心理テストみたいなこの質問は、大抵の人が一度は質問されて答えたり、考えたりしたことがあると思う。
 これの派生系でこんな質問が、前触れもなく脳裏をよぎる時がある。

「夜逃げする時、家にある本を一冊だけ持っていくなら、どの本にする?」

 確かこの質問を思いついたのは、佐藤賢一先生の『王妃の離婚』で主人公が恋人と駆け落ちする時に本を置いていけないエピソードが印象的だったからだと思う。
 そもそも、普通に生活していたら「夜逃げ」を経験することはそうそうないだろうけれど、実際は「無人島に一人取り残される」より確率はずっと高いはず。
 取るものもとりあえず貴重品だけ持って住み慣れた家を離れ新天地へと引っ越す所謂「夜逃げ」は、今まで六回の引越ししたことがある私も流石に経験がない。でも「何かから逃げる為に」計画的に引っ越ししたことなら、二度ほど経験がある。
 最初は何も分からず知らされずに急に住み慣れた街を離れて、親戚や友達と別れ、泣く泣く荷造りをした。二度目は一度目の理由を理解して、自らの意思で次の家で家族みんなで暮らしていくことを考えて積極的に物を、本を捨てた。どちらの時も事前準備は一ヶ月くらいはできたし、ご近所さんにも挨拶したし、引っ越し業者も昼間に来たから「昼逃げ」とも言えないのかもしれないけれど、精神的には正しくどちらも「夜逃げ」だった。
 だから、この質問を思いついたし、折に触れ思い出すのだと思う。
 私にとっては無人島に行くより、夜逃げする方がリアルだから。

 本を慎重に保管されてる方からは邪道かもしれないけれど、大人になった私は本は好きでも書籍という物質自体への執着はあまりない。読むに困らない汚れや紛失もあまり気にしない。
 なぜなのか考えてみたら、本に書かれた内容は読んだ時に自分の中に取り込んでいっている感覚だからなのかもしれない。もちろん一回読んで全てを取り込めるわけではなくて、忘れてしまうことも多い。
 紙にインクによって印字された文字が本という形にまとめられた書籍という物体は、本の本質ではないんだと思っている。
 そう思うようになったきっかけは、恐らく二度目の「昼逃げ」の時に大きな家から小さなマンションの一室に家族で住むため、それまでコツコツ買い集めてきた小説や漫画を300冊くらい引越し業者にもらった段ボールに仮詰めして車で最寄りのBOOKOFFに持ち込んで売ったからだと思う。
 買取の時には値段がつかなかった思い出の一冊が、数日後には100円という値札を貼られて店頭に並んでいた。
手に取ってパラパラめくってみれば数日前と同じ内容が書かれているのに、もうこの本は私のものではなくなってしまった。当たり前だけどショックだった。
 でも、もう自分のものでなくなっても、私の記憶の中に残っている部分もあるんだからいいじゃないか。そう思い直したんだと思う。
 今でもその時売ってしまった本のタイトルや内容を思い出すことがある。その後も引越しの度に、限られたスペースに収まるように本を選別し、捨ててはまた次の引っ越しまでに新しい本を買っている。捨ててしまって後悔することや名残惜しい気持ちになることもあるけれど、もう私の血肉になっているから、大丈夫。
 だから、実際は本を捨てたり売ったりしているけれど、私は「本を手放す」という言葉を使っている。物質的には離れているけれど、心理的な関係性は繋がったままだ。
 去年から電子書籍にも手を出して、昔手放してしまった懐かしの漫画を改めて書い直して読んでいたりもする。

 あとは、尊敬する昔の職場の先輩と読書の話になった時に、
「通勤時間は本を読むけど読了したら、駅のゴミ箱に捨てて帰る。読み返したくなったらまた買う」
という話を聞いて、自分と価値観は違うけれどカッコいいと思ったことも影響しているのかもしれない。
 本の楽しみ方は人それぞれ色々ある。


 夜逃げの時に持っていく一冊の話に戻ろう。

「夜逃げする時、家にある本を一冊だけ持っていくなら、どの本にする?」

 床から天井まで九段、漫画の単行本や文庫本なら一段に前後二列収められる自分の本棚にズラリと並ぶ、どれも思い入れのある本たちを眺めながら、時々そんな自問自答をしている。

 物質としての本にこだわらないならば、一冊も持っていかないという選択がかっこいいのかもしれないけれど、そこまでは達観できない。私が選ぶとすると矛盾するけれど、その基準は自分の中に取り込みきれない本。「替えが効かない」・「この世に一つしかない」本になる。

 すぐに二冊まで絞れる。
 意識していなかったけど本棚の近くに置いてある椅子に座ったら、すぐ手に取れる位置に並べて置いてあった。
 でもそこからがどちらか一方に絞るのは、とても難しい。

 私にとっての「初まり」と「終わり」の本だから。

 「初まり」の本は文字通り、私が生まれて初めて自分一人でお金を出して買った本。当時のことを覚えていた母によると、小学三年生の時に家のすぐ近くでやっていたバザーに友達と遊びに行って買って帰ってきたらしい。

 本のタイトルは『ああ無常』。

 小3で『ああ無常』ですよ。昔の自分ではあっても、生意気というか、こまっしゃくれているというか。十中八九、無常の意味なんて分かってなかったと思います。今質問されても難し過ぎて、明確に答えられませんが。
 少年少女世界文学館というシリーズの一冊だけれど、子供が喜んで読みたがるようなタイトルでも内容でもないし、表紙もフォークが曲がっていて怖い。子供向けとはいえ分厚くて登場人物も多く、難解で暗い話。
 母としては、幼稚園生の頃から絵本や児童書は好きな子どもで、よく図書館に連れて行っていっていたけど、その本を理解して読み進められるとは思っていなかったらしい。
 それなのに、チラチラと私の勉強机の上に置いてあるその本をチェックしていると、段々と栞の位置が動いていって最後まで読んでしまってびっくりしたそう。本当に内容を理解できたのか確認の為に聞いてみたら、ちゃんと読んでいるらしき返答をしたとのこと。
 ちなみに、私の朧げな記憶ではその本を買う少し前に普段行かない図書館でその本と同じシリーズの別の本を読んでいて、印象に残っていたから買ったという経緯がある。確か10円とかで安かったし。
 そのシリーズは子供向けに編集されているだけじゃなくて、当時の地図や人物、服装や道具を文字とイラスト入りで説明してくれる注釈付きの良書。木靴とか燭台とかはこの本で初めて知って覚えた。
 『ああ無常』を読んでから、私は本の虫になり、活字中毒者になり、今に至る。
 そんな思い入れのある本だから、何度引っ越ししても私と共に一緒に移動している。
 いや、一度置いてきぼりにしてしまったかも。
 最初は私の学習机の本棚にいたけれど、途中家族用の共有本棚に安置され、実家を出て自立した数年後に回収し忘れていることに気づいて自宅に持ち帰ったんだった。ごめん。

 『ああ無情』改め『レ=ミゼラブル』の内容は、成長してから大人向けの小説を読み直したし、舞台も観に行ったし、ハリウッド映画も観たから、子供向けに省略されている部分があることはすでに知っている。
 知っていても、捨てられないし、もしも夜逃げする際に数冊しか持って行けないのならば、他の高価な本を見捨ててでも、この本を持って逃げるだろう。
 他の人には単なる古ぼけた児童書。
 私にとっては大切な、その本そのものに価値がある一冊。
 多分死ぬまで捨てないし、死ぬ時は一緒に燃やしてもらうのもいいかもしれない。可燃物なら火葬するお棺の中に入れてもらえることは、祖父母の葬儀で既に知っているから。
 夜逃げでなくても、例えば洪水、地震で避難する時にも持って行きたくなるかもしれない。緊急の際はそれどころじゃないかもしれないけど。

 じゃあ、そんな本と張り合うくらい、緊急事態が起きた時、どちらを持っていくか悩むくらい、私にとって価値のあるもう一冊とはどんな本なのか。
 それは数十年読みかけのまま、最後まで読むことができていない本。
 読めないけれど、手放せない。
 もしも、私が今後余命宣告を受けたり、「ああ、もう死ぬな〜」と確信したりしたら、多分観念して最初から最後まで読み切るんだと思う。その時間があれば。
 それくらい劇的なことがない限りは読み直せない。
 だから「終わり」の一冊。

 購入したタイミングは定かではないけれど、おそらく長かった中学受験が終わり、買うか買うまいかを悩みに悩んで、何週間も本屋さんの本棚の前でウロウロした上で、お年玉の一部を使って清水の舞台から飛び降りる勢いで買った一冊。

 ハードカバー版の『はてしない物語』。
 紙の箱に納められていて、本体は深紅の布製の表紙。本文は二色刷り。物語の中に出てくる不思議な本と同じ装丁。
 普通なら図書館でラミネートされた状態でしか読めない本を自分の所有物にできたという特別感は今でも忘れられない。
 手に入れて家に持ち帰って、表紙の肌触りを確かめつつ、夢中で読んだ。
 栞は本の半分を過ぎ、物語が佳境に入ってきたくらいの頃に。
 こぼしちゃったんですよね。
 麦茶を。
 普通の本だったらカバーはツルツルしたプラスチックか何かで、さっと拭き取れば終了だったんですが。『はてしない物語』は豪華版なので、赤くて肌触りのいい布製の表紙の方にこぼしちゃったわけです。
 シミがね、ついちゃったんです。
 真っ青ですよ。
 慌ててティッシュとかタオルとかドライヤーとかあれこれ手を尽くしたんですが、特殊な加工がされているのか濡れた箇所の色が変わって、元に戻らない。
 もう戻らないと、シミがついたままであると実感したら、あれだけワクワクしながら読んでいたのに、読めなくなりました。
 1ページも。
 一文字も。
 ただ表紙に小さなシミがあるだけ。
 ヘッダーに画像を載せましたが「な」の上です。
 大したことないですよね。
 でも、読めなくなっちゃったんです。
 本の中身に被害などなくて、一ミリも変わらず面白くてワクワクする物語なのに。
 結末を読めないまま、何十年も経っています。

 当時、歳の離れた弟が夢中になっていたおもちゃの端っこが欠けたってだけでもう見向きもしなくなったことを、子供だな〜って思ってたのに。弟には申し訳ないけれど、全く同じ心境になったことも、ショックで。

 そんな経緯があって『はてしない物語』は私の中で未完の一冊になっています。

 読みたいけれど読めない。

 でも、読まずには死ねない一冊。


「夜逃げする時、家にある本を一冊だけ持っていくなら、どの本にする?」

 本音を言えば『ああ無常』と『はてしない物語』の二冊とも持って逃げたい。だって、私が小三の時手に取った『ああ無常』はこの一冊だから。私がシミをつけた『はてしない物語』はこれしかないから。
 でも、二冊持って出られないなら。
 きっと、まだ生き続ける気満々なら『ああ無情』を、ちょっとでもダメかもしれないと思っていたら『はてしない物語』を持って逃げる気がします。その場になってみないと、自分でも分かりません。


 あなたなら、どんな一冊を手に取りますか?


#自分にとって大切なこと

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