結局、人間って|ヨルゴス・ランティモス監督『哀れなるものたち』
「WHITE CINE QUINTO」で、話題作の『哀れなるものたち』を観てきた。
どこまでも美しく、コミカルで、残酷。古さと新しさが絶妙にブレンドされたファンタジックな世界観に、目を奪われ続けた140分。長いよね。でも、ストーリーが目まぐるしく展開するから、眠くなるような隙もない。むしろ、体感では5時間分ぐらいの密度があった。
リアリティを抑えた演技、大げさな演技が多く、まるで舞台を観ているようだった。シュルレアリスムの絵画に引っ張りこまれたような、訳のわからなさが心地よい。
見た目は大人の女性なのに、幼児のような振る舞いをする主人公ベラ。本作では、彼女が各国を「冒険」をしながら知性や教養を身につけて成長していく様が描かれる。ただ、この成長譚は、「すごいね、素敵な女性に成長してよかったね!」と手放しに喜べるようなものではない。人生とは、世界とは、人間とは、のような哲学的な問いを投げかけてくるのだ。
特に、ベラが初めて目にしたスラムの様子にショックを受けて、手元の大金を与えようとする場面は、この世界に確かにある自己満足への痛烈な皮肉だと感じた。行動することで満足し、その結果にまで責任を持たない。社会の様々な場所で目にする、人間のどうしようもない部分の一つだ。
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本作の中で特に強く発されていたメッセージは、「男性の暴力的な支配に対する、女性の抵抗」だったように思う。
途中、自分の身体を売ることを選んだベラは、そういった女性が男性から「選ばれる」立場であることに疑問を感じる。その立場を覆せないとわかってからも、「消費される」だけではなく、できるかぎりフラットな関係を築こうとする。
ベラと駆け落ちしたダンカンや、脳を移植される前のベラ(ヴィクトリア)の夫アルフィーは、暴力的な男性のペルソナとして描かれる。彼らをばっさばっさとなぎ倒し、女の園に草食男子マックスだけを侍らせるラストシーンで、ベラは女王様のように君臨している。
そう、ラスト。これは、作中の数ある残酷なシーンの中で最も気持ちが悪く、いやーな余韻が翌日まで残った。マックスがアルフィーの止血をしているシーンに動物が出てきて、まさかと思ったけど……うーん。「暴力的な支配への抵抗は、結局暴力でしかなし得ない」という、人間の絶望的な部分が際立つ終わり方だった。間違いなく、哀れなるものたちだよね。
これは飛躍しすぎかもしれないけれど、ベラの肉体にはヴィクトリアの人格が残っていたのかもしれない。ヴィクトリアはアルフィーと同様に残酷な人間だったことが示唆されていたし、ある程度成長したベラが延々と性行為への関心を引きずっていたことも、「性的ヒステリー」を持っていたというヴィクトリアに重なる。
『哀れなるものたち』が、映画として面白かったことは確かだ。音楽も衣装も、カラフルな世界も本当に素敵で、特にベラとダンカンのダンスシーンには興奮させられた。
ただ、ヤギとなったアルフィーのあの目を思い出してしまうんだよな。思い出す度に、絶望的な気分になる。ゴッドは、どちらかというと「いいおじいさん」風に描かれていたけれど、最も暴力的で残酷な登場人物は非倫理的な技術を生み出した彼かもしれないね。ゴッドの脳が、死ぬ前にどこかに移植されなくてよかった。
私にとっての『哀れなるものたち』は、暴力と暴力が不毛にぶつかり合う戦争映画であり、トラウマとして心に残り続ける作品になると思う。子どもの頃に読んだ、日本昔ばなしやグリム童話のように。