書評:マックス・ヴェーバー『プロレスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
近代資本主義揺籃期の進展を支えた宗教的倫理とは?そして本著の現代的意義とは?
今回ご紹介するのは、マックス・ヴェーバー『プロレスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と言う著作。
ヴェーバーは、近代資本主義が勃興する過程において、その進展を推し進めた要因に人々の心理的な要素があったとし、その心理を「資本主義精神」と呼んだ。
そしてこの資本主義精神と禁欲的プロテスタンティズムとの関係性を社会学的に追究したのが本著である。
社会科学系の著作としては読みやすいと言えるが、その論旨を丁寧に追うことは意外と難しい著作かもしれない。
①本著のターゲット
まず、「資本主義精神」なるものが如何なるものか、資本主義の成熟期に生きる我々が的確に捉えることの困難さがあるかもしれない。
私見で極端な言い方だが、現代においては資本主義はほぼ所与の与件であり、そこに生きる我々の経済活動的精神性を意識的に自覚することは容易なことではない。実はヴェーバー自身、資本主義のメカニズムが確固たるものとなるにつれ資本主義精神は次第に忘れ去られ、その行動様式だけが残存すると指摘している。
また1つには、本著が対象とするのが「近代資本主義」であり、決して「現代資本主義」ではないという点がある。上記で「勃興する過程において」と記したが、本著の指摘する資本主義精神は、近代資本主義の揺籃期の精神形態だという点を押さえる必要があるだろう。
②近代資本主義の特徴
さて、近代の資本主義精神を考えてみたい。これは、近代資本主義の特徴を捉えることで見えてくる。
当然ながら、前近代にも資本主義的経済活動は存在した。広義に捉えれば資本主義は古代から存在したが、古来からのそれと近代資本主義はどう異なるか。
ヴェーバーはその違い(即ち近代資本主義の特徴)を、「近代資本主義が経営的、とりわけ産業経営的であること」だと指摘した。合意的な産業経営、その上に築かれていく利潤追求の営み、これらが大量現象として現れたのが近代だという指摘である。
③近代の資本主義精神
しかし、上述の近代資本主義の特徴は、厳密には「精神性」ではなく「現象」だ。
精神とは、現象を助長し推し進めた人の内面心理を指さねばならない。即ち、経営的な社会関係に適合的な人間を生み出していくことができる、そうしたエトスが近代の資本主義精神と呼ばれるべきものである。
そしてヴェーバーは、その精神性を「天職義務」と「世俗内的禁欲」と表現した。
これらは、長い間の宗教教育の結果として生まれてきた「経営や労働があたかも絶対的な自己目的であるかのように励む」という心情だとヴェーバーは言う。
ヴェーバーは、近代資本主義の成長を推し進めたのは、単純な貨幣慾や貪慾だけではないと考えたのだ。
※しかしそれらを否定しているわけではなく、ヴェーバーは歴史を多元的に考えている。
ヴェーバーは、近代の資本主義精神は、現代人が現代資本主義においてイメージしそうな「欲望」よりもむしろ、自己の貪慾を抑制できるようになっていること、即ち世俗的に禁欲的であることが産業経営的資本主義の成立に不可欠な前提条件だと捉えた。
④プロテスタンティズムの倫理
ヴェーバーが指摘する近代の資本主義精神である「天職義務」「世俗内的禁欲」は、どこから生まれたのだろうか。
ヴェーバーによると、この精神性を人々にもたらしたものこそがプロテスタンティズムの宗教倫理だったのだ。ある特定のプロテスタンティズム(カルヴィニズムとその影響下にある敬虔派(パイエティズム)やメソディズム、また洗礼派や「信団」の流れ)には、「キリスト教的禁欲」が見られると言う。
この禁欲的思想が世俗における禁欲精神を醸成したというのがウェーバーの主張である。
ここでいう禁欲とは、他の欲望をすべて抑えることでエネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込むような「行動的禁欲」のことだとされる。
カトリックはあくまで、修道院内部の生活に密着する禁欲、即ち「世俗外的禁欲」をもたらすに留まっていたのだが、プロテスタンティズムの登場により初めて世俗的な禁欲主義に影響するようになったとヴェーバーは言う。
⑤世俗内的禁欲の資本主義的営利への影響
しかし、この「世俗内的禁欲」が何故資本主義の営利と結びついたのか。
ヴェーバーは、世俗的活動が禁欲的に取り組まれたため、生じた利益が消費されずに残るという現象が生じたと言う。
こうした行動様式は全く新しい資本主義の社会機構を徐々に作り上げていった。
そして社会機構は、儲けなければ彼らは経営を続けていけなくなる形態にまで至る。つまり、禁欲的に取り組まれた近代資本主義がもたらした社会機構が、今度は彼らに世俗内的禁欲を強制するようになると言うのだ。
こうして強制力を持つに至る資本主義的経済秩序に対し、極めて強い警鐘を鳴らすことで、本著は幕を降ろします。
⑥考察:本著の現代的意義
まず、上記内容からおわかりいただけるかと思うが、本著は現代資本主義の動力を分析したものではなく、近代資本主義の揺籃期における動力を巡る著作である。つまり、ある過去の一時期の話であり、その内容が直接現代資本主義に当てはまるわけではない。
現代資本主義を語る文脈においては、本著の主張する「禁欲」よりもむしろ、個人や企業という経済プレイヤーの「欲望」を動力源と見る主張を目にすることの方が多いだろう。
更に、近代資本主義との比較における現代資本主義の最大の特徴は、需要の体現者としての「消費者」の存在感であり、動力としての「欲」云々を語るにおいては需要サイド・消費者の欲への注目を欠かすことはできないのが現代資本主義だと言える。
こうしたことから、本著の主張は「近代資本主義揺籃期の話としては仮に説得力があるにしても、現代資本主義を読み解くにはあまり関係がない、役に立たない」という意見があってもおかしくはない。
しかし!しかしである。
注目いただきたいのは、⑤の最後の指摘だ。
「禁欲的に取り組まれた近代資本主義がもたらした社会機構が、今度は彼らに世俗内的禁欲を強制するようになる」という部分だ。
元々は人の精神性が資本主義を形成したが、次第に資本主義という経済機構・経済システムが人の精神性を規定していく、という影響関係の逆転が起こるという指摘である。
これは現代人が胸に手を当て考えてみればわかることではないだろうか。現代においては、資本主義的秩序は明らかに現代人のメンタリティを形成する要因側に位置し、資本主義的秩序こそが現代人の価値観・価値判断に影響しているのではないだろうか。
このことに鑑みるに、現代資本主義を論じるにおいては、個人や企業といった経済プレイヤーの精神性以上に、現代資本主義秩序とはどのようなものか、どのような影響を人にもたらしているのか、といった、問題の要因側・原因側に目を向けた問題設定こそが重要になるはずである。
これを経済学の用語で語ることを許されるならば、現代社会を論じるという文脈においては、個人や企業という経済プレイヤーの最適行動を研究対象とする「ミクロ経済学」的視点以上に、資本主義という経済システムそのもののメカニズムや社会影響を研究対象とする「マクロ経済学」的視点に立つことが重要、という主張に行き着くはずだと考える。
巷にはビジネスマンが著したベストセラーが溢れている。ビジネスマンがビジネスのことを語る範囲においては、参考になる記述も多々あることだろう。
しかし殊彼らが一旦社会を論じ出したら、途端に間違いだらけになる。これは断言してもいい。
何故なら、ビジネスマンは「ミクロ経済学」的論理に意識的・無意識的に染まっており、「ミクロ経済学」の論理で社会を語ってしまうからだ。
「ミクロ経済学」的最適の集積は、必ずしも「マクロ経済学」的、社会的最適に至るとは限らないのだ。これを社会科学の用語で「合成の誤謬」と言う。
このことを知らないビジネスマンが社会を論じた愚書があまりにも多い。
ミクロ・ビジネスの論理世界とマクロ・社会の論理世界とでは、「公理」そのものが異なると言っても過言ではないと私は思っている。つまり、ミクロ・ビジネスの論理はマクロ・社会には通用しないことが多いのだ。
まずはマクロ的視点を持つ重要だ、という、視点についての話である。
その視点の内容に当たる、資本主義システムそのものメカニズムやその社会的影響がどんなものかについては、記事改め、考察を進めていきたい。
読了難易度:★★★☆☆
著者の主張の説得力度:★★★★☆
内容そのものの現代有益度:★★☆☆☆
最終指摘の潜在的現代有益度:★★★★★
トータルオススメ度:★★★★☆
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