随想:「失われない感覚を求めて」なお話
最近、自分にとって「没入」した文学・小説作品ってどれだったかなぁと振り返ることがあった。
私は文学では圧倒的にドストエフスキーが好きなのだが、ドストエフスキーではなく、読書中本当に没入し、読了後も抜け出せないというよりもむしろ「抜け出したくない、現実に戻りたくない」と後ろ髪を引かれ続けた作品がかつてあった。
それは、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』だ。
最近この作品のことを思い出すことがあり、改めて当時の感覚やその際の振る舞いを振り返ってみた。
『失われた時を求めて』の読了という長い長い「旅」を終えた私は、この余韻をいつまでも味わい続けたいと願った。
そしてそれを少しでも実現するため、同作やプルーストに関する本を続けて読み進めるような期間を過ごした。
写真は、その時にはまだ発刊されていなかったものも含まれるものであるため、あくまで雰囲気だ。
他にも恐らく10冊くらいはあるはずだが、見つけられず。
海外文学は、このように文芸評論や学術研究の著作が充実しているという点に魅力の1つがあるのではないかと思う。
ドストエフスキーだと、文芸評論だけで100冊以上読んでおり、色んな方が色んな切り口で読み解かれている様を楽しんできた。
しかしそんなドストエフスキーでも、動機が「余韻の継続」かというとそういうわけではない。
むしろ知的好奇心というか、探究心から来るものなので、作品の読了直後に乱読するということではないのだ。
しかし、プルースト『失われた時を求めて』の読了時の感覚は、明らかにそれとは異なっていた。
作品で味わった感覚を引っ張りたい。
他の読書でその感覚を掻き消したくない。
と、しばらくずっとプルースト関連の本だけを選んでそれこそ乱読したことを覚えている。
それ程とまでは行かずとも、最近は「没入」するような読書体験ができていない。
実は今も昔も変わらずなのだが、私自身の読書の中心軸は社会科学領域にある。
オッサンになるにつれ時間の制約からますます読書の「選択」をせざるを得ない状況に追い込まれるようになり、常に社会科学分野の優先順位を高く設定しているのが現状だ。
つまり現在のKING王は、文学や小説はどうしても後回し対象にしてしまっているのだ。
「没入」に関しては、現代の日本小説にはなかなか没入できないという事実とその理由について、最近思い当たる節も出てきたりした。
また改めて、そんな他の話に話題を転じながら、随想を書いてみたいと思う。
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