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自分とか、ないから。教養としての東洋哲学 しんめいP

無我

『自分とか、ない。』

苦しみの原因。それは『自分』なのだ。

全てが、変わっていくこの世界で、変わらない自分をつくろうとする。

『自分』ぜんぶ捨てたら、『きもちいい』とい事だ。

自分の変わらぬ本質など存在しない。

身長を考えてみる。
自分は大きいだろうか?
それとも小さいだろうか?
正解は「場合による」なのだ。

自分の身長は168センチ。
日本でいると、少し小さいぐらい。
オランダへ行くと、大分に小さい。
幼稚園児達と比べると、大分に大きい。

『強い/弱い』『善い/悪い』『有る/無い』、
すべて、縁次第でどんどん変わっていく。
その中で、『自分の変わらない本質』は成立しない。

つまりは、不変の個性・性格・アイデンティティは、あり得ない。

その場の比較によって決めてしまっているだけ。

陽気な集団にいれば、
自分はそれとの比較によって自分は陽気ではないと思うだろう。

勉強ができる集団にいれば、
自分は勉強できないとなるだろうし。

英語を母国語とする集団にいれば、
自分は英語が喋れないとなるだろうし。

僕たちが悩む時にやってしまいがちなこと。

『自分は弱い』と、前提をおいて、
だから『恋人ができない』と結論づける。

まず、「自分は弱い」という前提がおかしい。
「強い」というペアの相手が存在しない。

自分が弱いという前提が存在しないので、
彼氏ができない、という結論も成立しない。

こういうような「クソしょうもない考え」 のなかに入り込んで、
でられなくなっているのが、僕たちの姿なのだ。

そもそも、すべての悩みは存在しないのだ。
なぜなら、そもそもの悩みの原因を作り出している前提がおかしい。

『有』をつくるから、『無』がうまれる。
『正』をつくるから、『誤』がうまれる。

『こうあるべき姿』をつくるから、そこから外れるとしんどくなる。


言葉をすてる

自分が「ダメだ」と思った瞬間、
「あ、言葉の世界に入っているな」と認識するだけで全然違う。

大我

『なりきる』こそが『自分』をつくる。

自分をこえた、でっかい『自分』になる

空海はそれを『大我』と呼んだ。

大欲

お金をいっぱいゲットしよう
もいいけど、
お金をいっぱいゲットして、いっぱい人を助けよう

と、でかく考える。

すると、でっか自分『大我』になる。

でっかい自分、
なんでもできる自分、
自分が尊敬する人
そして、大日如来になりきる。

さとりをめざして、慈悲の心をもって、人をすくうのを究極とする。

人助けしてなんぼ。
そしたら、自分がきえて、めっちゃ気持ちいい。


この本を読んで


自分のやりたいことは?
自分にとっての幸せとは?
自分はどんな人生を送りたい?
自分の人生でやり遂げたいことは?

そんな事を悶々と考えてしまう時がある。
そして、周りの友達もよくそんな事で悩んでいる。

そもそも、自分というものをは存在しない。
自分とは、自分自身が想定する固定した価値観を持っている自分。

人とは細胞の集合体。
細胞は3ヶ月で全ては入れ替わる。
ということは、3ヶ月前の自分と、今の自分は全く異なる自分。

固定した自分があると考えるから、自分というものが分からなくなる。
そもそも答えのないものであるから。
自分を軸にして、物事を考えると、ドツボにハマっていくように感じる。

自分というものが存在しない。
一旦、自分というものを脇に置いて、考えようと思った。

世の役に立つには?
周りの人が喜んでもらには?

そんな出発点から物事を考えてみようと。

自分探しをしても自分なんて見つからない。
自分なんてないのだから。

そんな事を思った
『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』
でした。


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