映画<首>~織田コンツェルンの人々~

クビを切る、土下座と言えば?


出世とは無縁だけど、私の会社員生活は今までの人生の半分の年数を超えた。
その中で感じ取ってきたのは、会社の中は、「情」で動くところが大きいということだ。たぶん令和になってもなお。
その人の能力というより、その人を好きか嫌いかという感情が、情が、暗渠のように流れ続けているのが組織というところだ。
「情報」とは「情の流れ」を知らせることと言えないだろうか?
権力のある者、上司に愛されるかどうかは、すごく大きい。公平でなければならないけど、やはり人間だもの。
この作品で描かれる武将たちは、そのような会社員の姿のように見えてならなかった。「情」で動いていく織田信長、配下の武将たち。
秀吉の弟、秀長が「(黒田)官兵衛がそう言うんだから、そうだろ」と、賢い社員の言うことだからそれが正解なんだろ、という態度も、すごく会社員チックだ。
出世のカギとなる、男たちが探し回る首は、上司の愛情のようなものかもしれない。
首を切られた死体たちは、愛情を失った者たちだ。武将(出世する会社員)の人生が終わった者だ。
「クビを切る」(会社員でいう解雇)も、秀吉の家康に対する「土下座」(会社員の謝罪の最終形態)も、なんだか会社員を彷彿とさせる。

でも、古いものは捨てよう


会社員生活を送ってきて、もうひとつ感じたのは、何かの規則を守るための作業にエネルギーをささげることが多いこと。
とくに公的なものに関わったときは、形式を守るために、チェック作業や収集作業が多い・・・「情」でさっさと動けない。
たとえば、お金が欲しい?愛いやつだから払ってあげよう、は通じない。
規則に従って根拠となるものをそろえ、規則に従った事務手続きを行なわなくてはならない。
この作品の中の、「クビを改める作業」って、まさにそれ。
膨大なクビ改めをこなし、ライバルのクビが切られたことを証明しなくては、自分の出世の申請はできない。
秀吉の最後の行動は、こんなことに時間を、エネルギーを使うの、やめない?クビ(上司の情)を追っかけるのも、やめにしない?という提案のようにも思えて。
北野武は、芸能の世界における会社員生活を身をもって味わってきた人なのだろうと思った。
織田コンツェルン的な組織の会長のクビを切るのは、海外資本なのかなとも。

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