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映画<怪物>を18回、観た。~第四の視点~

18回目より前の鑑賞のときだったかもしれない。
あたりまえのことに突然気がついた。
<怪物>は三つの視点が語られる作品だけれど。
第一の視点=早織。第二の視点=保利。と来て。
第三の視点=こどもたちの視点ではなく、湊の視点であるということに。

それは、作品中で何度か映し出される湊の部屋の様子を思い返していたときだ。
そういえば、湊の部屋は登場するけれど、依里の部屋(私室)は出てこない。
依里の家で登場したのは、玄関周りとキッチンとダイニングルームとバスルーム。
依里はどんな部屋で日々を過ごしていたんだろう? そもそも依里には私室があったんだろうか?
作品中には出てこないけれど、役の設定を深める上で、依里の部屋のセットも作られていたんだろうか?
と思いめぐらしたところで。

依里の部屋が出てこない理由は、第三の視点が湊の視点であって、依里の視点ではないからだ、というあたりまえすぎることに気がつく。
第三の視点は、湊から見た世界であって、依里から見た世界ではない。
<怪物>の物語の三つの視点をつなぐ、見えないリンクのようなものが、依里の視点だ。
三つの視点の物語であるように見えて、第四の視点=依里の視点が存在している。
おそらく依里の視点の物語は、他の誰の視点よりも過酷な世界だっただろう。
その視点は語られず、現れないが、たしかに存在している。
物語の地下に、暗渠のように流れている。
<怪物>に魅了された観客は、おそらく無意識に第四の視点の存在を知覚している。その存在がもたらす深みと言ったら。。。

第三の視点の世界の依里の姿は、<湊が見た依里の姿>である。あたりまえなんだけど。
第三の視点には、客観ショットと、湊の主観ショットのシーンが共存している。
湊の主観ショットのときは、湊の様子も表情も、観客からは見えずに隠されているけれど。
依里の可愛さが際立つシーンが、湊の主観ショットなのが、萌え効果を発揮している気がする。
インディアンポーカーで、ナマケモノの説明をする依里の焦るほどに可愛い顔立ちと所作とか。
廃電車の車両内を飾り付けるときに、灯されたストリングライト(クリスマスツリーの電飾みたいな)を身体にまとって見せる依里とか。

ストリングライトは、湊の部屋にもある。灯りがつかないと気づきにくいのだけど。
湊の部屋内が荒れていたときのシーン。
早織はそれを「発散」とシンプルに翻訳し、湊のバッグの中にしのばせられたチャッカマンの存在には気がつくけれど。
湊のベッドの上部から釣り下がっている、灯りのついたストリングライトの存在の違和感には、早織は気がつかない。
モノが散乱した状態の中で、灯りがついたストリングライトだけが、無事である。むしろインテリアの要のような位置にある。
湊が依里と会うことができなかった夜の車両の記憶の中には「灯りのついたストリングライト」がある。ストリングライトをまとった依里の姿の記憶もある。
このとき湊は、夜の車両以来、依里に会うことができなかったときのはずで。自分の部屋内に、疑似「車両」内を作り出そうとしているようにも見える。
荒れた部屋は、依里を失うかもしれない湊の心の荒れを映しているのだろう。発散ではなく。

とてもとても深いところにある感情は、見せないし、見えない。
見えたとしても、別のかたちやものになっていたりする。チャッカマンみたいな、ストリングライトみたいな。
それが哀しみであっても憎しみであっても愛しさであっても。
見えないものを見たくて、私は何回も<怪物>を観にいっている気がする。

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