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「海の妖精」小説



 呼吸が必要以上に重くなったときに、必ず訪れる場所がある。そこは何よりも大きく、静かなところだ。それはその大きさを誇示することもなく、それでいて後ろめたく思う様子もない。ただそこにありのままにあるだけだ。その場所は何度も僕の呼吸を軽くし、乱れてしまったものをゆるやかに元の位置に戻してくれた。この場所がなければ不足は永遠に満たされることなく、乱されたものはそのままに、見るに堪えない姿に僕はなり果ててしまっていたと思う。

 月がちょうど他の海にかかりきりのようで、その海の存在感はいつもより控えめに見えた。
 部屋から出て右折を2回、左折を1回、ゆるやかに下る坂を下りた先にその海はある。腰を下ろすところや波止場といった気の利いたものは何もないが、生まれたばかりの子どもの肌のように美しい砂浜と湖のように穏やかな海があればそれで十分だった。
 僕は砂浜に17個の足跡をつけ、たどり着いた位置に座った。砂は柔らかくそのまま沈んでしまいそうな気がしたが、どっしりとした地盤が砂の下から僕を支えた。
 改めて海を見る。ずっと胸の中にこびりついていた頑固な油汚れのようなものが嘘のようにはがれていく気がした。どんなに丈夫なたわしで強くこすっても落ちることのなかったものだ。化学メーカーが生み出した革命的な食器用洗剤を使ったような気分だ。
 それと同時に呼吸が軽くなっていくのがわかる。軽いというより軽快だ。ポップミュージックのようにリズミカルな呼吸。
 そうだ。信じるしかないんだ、と僕は思う。胸がリズムを刻みだすと、いろいろな物事が確信に満ちていく。明日の晴天、自分の可能性、世界の平和。すべてを信じることができる。
 僕は何度も、こうしてすべてを信じてはそれを打ち砕かれてここに戻ってきた。それでもここで海を眺めれば、信じずにはいられなくなるのだ。後ろ向きなことは考えられなくなる。それが、僕の根本的な問題を何一つ解決していないとわかっていてもだ。それだけの説得力がここにはあった。


「本を読みすぎた少年がここにひとり」
 波音のようにきれいな声だった。
「本のせいか」
「いいや、君のせいだよ」
 海の存在感がさっきよりも大きくなっていた。月が移動したようだ。もちろん、月は絶え間なく移動しているし、移動しているのは月だけではない。
 彼女はいつも美しく笑った。そして美しく声を発した。彼女自身がそうしているのではない。彼女以外のものが彼女を美しくしているのだ。
「海が好きなの?」
「海を見てるときだけ生きた心地がする」
 そう言う僕を彼女はまっすぐのぞき込む。僕のことを何でも理解しているというような顔だ。
「君にはわからないと思うけど」とそれに負けないように僕は言ってみた。
 彼女は非の打ちどころのない笑顔で「いいや、ぜんぶわかるよ。私には。わからないのは君の方でしょ。なにもわかってない」と言った。口調があまりに心地良くて眠ってしまいそうになる。
「本ばかり読んでる君にはわからないことだらけなんだよ」
「どうすればわかるようになる?」
「わかるようになりたいの?」
「できればね」 
 彼女は僕の問いには答えず静かに笑い始めた。大笑いしているようにも見えたし、ただ微笑んでいるだけのようにも見えた。どちらにせよ、それは美しい景色だった。息をのむほどに。せっかく軽くなった呼吸もするのを忘れてしまう。
「そうだなあ。本を読むのをやめろとは言わないよ。それだって君にとっても私にとっても大切なことだからね。でもね、君は頭を使いすぎるんだよ。賢いからね。もちろん、そうすることでいろんなことと戦ってきたのはわかるよ。できるだけ誰も傷つかないようにね」
 太陽が少し、ほんの足先ほどと言える分だけ海に浸かっていた。太陽に触れた海は一様にその色を変化させた。自分を変えられたことに対する怒りも憎しみもそこからは見て取れなかった。それすらもただ穏やかに受け入れているようだった。
「君が必死に傷つけないようにしてきた人たちと同じように、君にも傷ついてほしくないんだよ。私は。それから海もね」
 彼女の口調は相変わらず目の前に広がっている海のように穏やかですべてを受け入れられる余裕があった。
 僕はただ海を眺めているしかなかった。その果てしないほどの広大さに逃げるように。
「結局のところね、君はずっと目を背けてきたことに向き合うしかないんだよ。深くて暗い地下室みたいなところに閉じ込めてたものに光を当てなきゃいけないの」
 もう彼女の方を見ることはできなくなっていた。そんなことをすれば今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
「僕にはもうそんな体力も気力も残ってないんだよ。それにこれ以上傷つきたくないんだ」
「そうすることにそんなに力はいらないんだよ。必要なのは少しの思い切りだけ。確かに、今度は君が必死に守ってきた場所に傷を負うかもしれない。それは本当に怖いことだと思う。でもね、君が本当に救われるにはそうするしかないと思うんだ。それに、君は君にできる以外のことをしようとしなくていいんだよ」
 彼女はそうやって多くのことを僕に伝えてくれた。その語気はいささかも乱れることなく、一定のリズムで美しいままに流れていった。
 太陽はすでに肩までどっぷり海に浸かっていた。海の様子はその色こそさっきよりも濃く変化していたが、顔色という点では少しの乱れもないように見えた。
 砂浜に残る17個の足跡は僕がここまで歩いてきたことをしっかりと記録していた。

「すごく眠いんだ」
「眠るといいよ。ここはそのための場所なんだから」
「君はさ、人間なのかな。それとも海?」
「さあ。君が信じたいものを信じなよ」
 彼女は笑っていた。それを見ていると静かな音楽を聴き、やさしい花の香りに包まれているような気分になった。
 そして、まるで母親に寝かしつけられた子どものように僕は眠りについた。



 この町には親が決まって子どもに話して聞かせる童話がある。
 海の妖精の話だ。妖精は美しい少女の姿をしていて、日が沈む頃にその姿を見せる。その小さな体で海のすべてを表現していた。笑うことで波音を、美しさで海の青さを、そしてその落ち着きで海が味方であることを表した。妖精は人々の傷にそっと触れて、その傷を癒すのではなく、人々を護り導くものへと変えていくのだった。
 妖精によって前を向くことができた者たちには、彼女に会ったことを記憶に留めておくことはかなわない。

 僕らは彼女の姿を思い出すことはできない。

 人々に残るのは、深い傷だったはずの確かな道しるべだけなのだ。









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