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☆お盆に死者は帰宅するのだろうか。

 2年前、家族が亡くなったので我が家は、通例に従い今日もお盆中だ。何でも、死者が、自宅に帰って来るのだそうだ。だから、死者に会いに、親戚とか友人とかが訪れるかもしれない、という理由で、なるべく家にいるようにしている。

 昨日は寺に迎えに行き、最終日に送り届ける。こんなことを人々はどのくらい続けてきているのだろう、私もこれからずっと、8月の真ん中は寺の行事に拘束されるのだろうか。今まで実家の盆迎えは、寺の、あの雰囲気を結構楽しんでいたのだが、いざ自分が担うようになると途端に、何か言いたくなるからいけない。

 そもそもお盆に、本当に死者は帰宅するのだろうか。そんなことあるはずないと思ってはいる、でも果たして、絶対に帰宅しないと言い切れるだろうか。誰も、確かめようがないのに。それに、帰宅するということは、死者がどこかに存在しているということになるではないか。

 死んですぐ葬儀屋が来て、そこから儀式の連続だった。供養だの冥福だの、祈る人も拝む人も泣く人も、パフォーマンスがただただ可笑しかった。目の前にあるのは死体と、この人はもう何もできないという事実だけだった。

 残った者はここでこれからも生きていく、戦ってがんばって踏ん張っているのに、命日や誕生日なんかの記念日が来るとぐらっとくる。そこに秋と春にお彼岸、夏にお盆がちゃちゃを入れてくる。死者を出しに、寺と花屋が儲けているだけとしか思えない。そういう、大して意味のない通例のためにペースを乱されるのは、私としてはちょっと迷惑だと感じる。

 生者は死者のために歩みを止めてはいけない。もし、死者が生者の足を摑むなら、それを踏みつけなくてはならない。この、私の足を摑んでいるのは、よく見れば愛するその人ではなく、いつまでも悲嘆の海に浸らせようとする、自分自身への同情心だからだ。

 どんなに感覚を研ぎ澄ませても、どんなに願っても、私には死者を感じることはできず、やっぱり死んだ人はもうどこにもいないと確信している。

 まあまあ、年中行事として気軽に、帰宅するのかしないのか、答えは死ななきゃわからないんだし。



#エッセイ #哲学 #お盆 #死者


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