一切の事柄には、必ず終わりがあるものだ。 小学校が終わり、中学、高校が終わり、学生時代が終わり、恋が終わり、独身が終わり、育児が終わり、結婚が終わり、健康が終わり、闘病が終わり、命が終わり… お祭りも終わり、牢獄も終わり… 人の世話も終わり、苦労も終わり、独りきりも終わり… 人生を一本の道だとするなら、私は、数々の終わりを脇に見ながら、歩みを止めずにここまで来たということになる。 一つ一つの終わりに、寂しいとか嬉しいとか、感情が沸くけれど、その感情のさ中にも、
人間からは何の糸も出ていない。 人間の姿の その型どりの中に 今までがあり、これからがあり、今がある。 拠り所や救いを求めて 無数に糸を放つけど、 そんな糸なんかで どことも、誰とも、繋がりなどしない。 糸など出さぬ時こそ その型どりの中に 無限の宇宙を持つものとなる。 強くひたむきな、高く飛ぶものとなる。 私には人間がそう見える。 #エッセイ #哲学 #人間 #糸
哲学書は人生案内書ではない。 ずばっと一言、おすすめの文言を見ると、あー、なるほど、とか、素晴らしいな〜、とか、心に刺さるわー、と、感動するし、納得もし、一時的に元気をもらえるかもしれない。それは違うだろ、とか、いまいちピンと来ない、というのももちろんあるのだが。 例えばデカルトの、"我思う、ゆえに我あり"。 私もこの言葉に拠り所を得た一人だ。例え方法序説を全部読まなくても、この言葉は世界に君臨する。受け取る人の中で、どんなふうにも変貌を遂げる。 ある人は、
仕事柄、季節柄、子どもの予防接種に立ち会うことが多い。 つい先日、30代前半くらいの若いパパが、幼児を3人連れてきた。3きょうだいの誰が1番に打つのか、決めて来ていたようで、パパが、「トップバッター〇〇ちゃん」と言った。 トップバッター 私の頭の歯車が回りだす、これはもう聞き流すことなんてできない。 まず、パパを見ると、丸刈りではないか、あー、パパは野球出身かもしれない。だからなのか、そうでなければ、今の若者はトップバッターなんて言うのかな。それか、やは
旅行は好きじゃない。 わいわい騒ぐのも好きじゃない。 料理も掃除も好きじゃない。 ただ こうやって 言葉を探しているのが好きだ。 #エッセイ #詩 #哲学 #言葉
火傷を負った。内ももに熱湯をかけてしまった。見た時にはもう、皮膚はずる剥け、3×5センチのUFOみたいな形をしている。赤い、赤くて水々しい、よく見ると赤の中央部分は白い、これは皮膚?肉?水が出てくる出てくる、これは何? その時体は、その傷を最小限に食い止めようと、いろんな所からいろんな物質を放出し、そこへ向かわせる。それはまさに一致団結の作業だ。そこにプラスして、私としても、傷薬を塗って、乾かさないようにラップを当てるなど、手を加える。私も外から、一致団結に加わるのだ。
みなさんにとってもそうだと思うが、私にとってニーチェは怖ーい先生で、ただ一人の理解者で、ふるさとのようで、とてもこの世とあの世程の隔たりがあるだなんて思えないくらい、いつもそばにいる。 多分、私の解釈は、都合のいいように偏っているだろうし、もしかしたら全部、的外れなのかもしれない。だけど、突然の大きなものの喪失で、崩壊した自分、瓦礫の山となった自分をただ眺めていた私を、励まし、作り直すのに寄り添ってくれたのはニーチェだった。再建の本能、この一言で。 にわかの神に祈っ
考えることがなくなるとか、 問いがなくなるとか、 それは心の平穏といえる。 その状態は ある人にとっては空虚となり、 退屈となり、 焦りとなるのだろう。 するとその人は、 悲しみや恨みや懐かしみといった過去へ 飛び込んでいく。 理想や心配や諦めといった未来へ 飛び込む場合もある。 そうやって わざわざ心の平穏を乱し、波立たせる ことにより、 考えることや問いが 再び作られる。 そうなると今度は、 乱れ波だった心を平穏に戻すために
自分が独りだと感じる時 自分の中に友を感じる。 友は 私の狭くなった視野を広げ、 巻きついた縄をほどく。 友は 私が独りきりで問題に挑む時にだけ、 考え抜く力をくれる。 孤独を知らぬ者には 孤独を恐れる者には 私は寂しくてかわいそうに映るだろう。 孤独を知らぬ者にこそ 孤独を恐れる者にこそ 孤独は寂しくてかわいそうなものとなる。 負け惜しみに聞こえるだろうか、 強がりに見えるだろうか、 そう映るなら仕方ない。 説明しても わかっても
年令早見表が業務で必要なので、年が明けると検索して印刷する。それは、西暦何年、大正・昭和・平成・令和何年生まれの人が今年何才になるかがわかる表だ。 表は、右下から1才、上っていって右上が50才、左下に下りて51才、上っていって左上が100才、というものが一般的だ。 この表を眺めていたら、人の一生だ…と何かが浮き出てきた。51才、表の左側に自分が移行したのを確認した時、毎日目にするこの表に突然、はっとさせられたのだ。 51才で表の一番下に落とされ、上を見れば、まだ
報道を見るのが苦手で、テレビもラジオもインターネットも触れないようにしているのだが、うっかり見てしまった報道ステーション。J1町田ゼルビアの、告訴のニュースをやっていた。 誹謗の文も、町田のサッカーも、見たことはないし、2分間くらいで得た情報なのだが、どうやら、町田のサッカーが、高校サッカーのノリだという文句なのかな、これで合っているだろうか。 私は30年越しのサッカー好きだ。マラドーナから入門したこともあり、Jリーグよりも、ヨーロッパや南米のを好んで観てきた。
今年も暑さが落ち着き、やれやれと一息吐く。 暑さの恐怖が去ることもやれやれなのだが、私にとっての主なやれやれは、別のところにある。 家は昔の商店街の中の一軒で、両隣とは、くっついていると言っていい程の間隔しかない。その両隣、すっかり空き家になってしまい、草ぼーぼー、枝ぼーぼー、こっちに覆い被さる勢いだ。そちらの、生き物の楽園の余波を受け、夏場はこっちにも活気が入り込んでくる。聞いたことのない獣の声が響く夜もある。 そもそも、この家も長い間空き家だったのを購入したもの
ノミみたいに みんなでぴょんぴょん飛び跳ねているだけの もはや末人の私。 そのノミの中に 邁進した夢がある。 夢が砕け、残骸がある。 残骸を睥睨する自身の目がある。 そのまなざしに耐えきれず、 どうか、 外を見てしまわないで。 それでも、内を、 自分自身を見つめ続けて。 そのノミの中、 広大な 視線のせめぎ合いがある。 #エッセイ #詩 #末人 #夢 #自分 #思い
スマホを持たない、 とは言っても 他の道具で メールもLINEも調べ物もして、 フツーに生活している。 周りと 少し違うのは、 一歩外へ出たら、 誰も私と連絡がつかないことくらいだ。 どんな場面で、 スマホがないとどうなるか、 それは想像にお任せしよう。 生まれた頃すでに、電話はあった。 一家に一台、玄関にある、 友人や好きな男子と電話するのも、 一旦 家人を通さなければならなかった、 懐かしい、愛すべき不便。 その後、自動車電話なんての、 ドラマで見かけたな。 2
小さい頃から、音楽を聴くのは習慣だった。幼・小・中はレコード、カセットテープ、中学半ばからCD、レーザーディスクとかMDとかが現れ、消え(てはいない?)、物体のないものへ、音楽は変わっていった。もはやジャケ買いなんて日本語は、一部の人にしか通じないだろう。 初めてCDをジャケ買いしたのは、高一の時。あたたかみのある、想像世界のようなイラストが良くて、買った一枚。高一の、子どものすること、ミュージシャンもレコード会社も全く知らない、アルバム名は"地球のうた"。厳密にはジャ
もうすぐ今日が終わる。 今日の最後を 安らかに。 たたかいの緊張をほどいて 唱えよう、 安らかに。 何も思い浮かべなくていい、 花畑も虹も夕映えも。 自分だけの世界、自分だけの音楽、 自分だけの安らか、に 自分だけの生命もある。 たとえ一分でもいい、 私よ、安らかに。 安らかに、おやすみ。 #安らか #たたかい #自分 #生命 #哲学