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☆私の木〜ブラックジャックのけやき太郎にちょっと似ている話

 ただの偶然、では片付けられない、メッセージ性のある出来事、その人の取りようもあるのだろうけど、そういう、いつまでも忘れられないことって誰しもあると思う。

 その木は生まれ育った家の部屋の窓から見えた。ちらっと見たり、じーっと見たり。いつからか私は出かける時も帰った時も、挨拶するようにその木を必ず見るようになっていた。

 西側にあったから、夕暮れ時もいい、雨の日もいい、雪の日もいい、季節ごとにいい。気が向くとスケッチみたいなことをして、木と戯れる自分を描き入れたりした。あの木に登ってみたいな、とか、友人になりたいな、なんて思ったり。ねえ、木さん、などと言ったことはないが、見るという行為は語りかけだったのだと思う。


 その年、私は失恋をし、たいそう落ち込んでいた。木を眺める時間も増えていたことだろう。毎年いちばんきれいなこの時期、芽吹く時期、何か今までにない、力いっぱいの輝きを放っている、木が私を元気づけているみたい、私は自然とその姿を描き始める、色鉛筆を使ってちゃんと仕上げたいな、と初めて思った。

 絵が仕上がった翌日、仕事から帰りいつものように目をやると、木は、もうそこにはなかった。

 考えてみると、その木が何という名の木なのか、誰の土地に植えられた木なのか、気にしたこともなかった。木は、けやきだったな、土地の主が切ろうと思えば、あえなく切られちゃうんだな、ああそうか…。

 その年の異様なきれいさは、私に描かせるための、私に向けてのものだったのではないか。落ち込む私に、描くことを思い出させようとしたのではないか。自分の命を絵に宿したのではないか。諦めきれない思い。

 けやきを見かける度に、あの木を思う。他のどんな名木を見ても、私の木は、あの木だけだ。今ではそこに木などなかったかの様に、景色は落ち着きはらっている。


 木の意図や、木との絆をけやき太郎みたいに証明するものはない。そんなもの、あってもなくてもどうでもいい。ただ、スケッチブックを開けば、私達はいつでも会える。それは本当のことだ。

 一本の木が、あったかなかったかなどどうでもいい。ただ、私達が何度も再会を果たしているのは、本当のことだ。

 絵が、ここに今もあるのは、本当のことなのだ。



#エッセイ #哲学 #木 #描く

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