☆哲学書は人生案内書ではない。〜例えばデカルト〜
哲学書は人生案内書ではない。
ずばっと一言、おすすめの文言を見ると、あー、なるほど、とか、素晴らしいな〜、とか、心に刺さるわー、と、感動するし、納得もし、一時的に元気をもらえるかもしれない。それは違うだろ、とか、いまいちピンと来ない、というのももちろんあるのだが。
例えばデカルトの、"我思う、ゆえに我あり"。
私もこの言葉に拠り所を得た一人だ。例え方法序説を全部読まなくても、この言葉は世界に君臨する。受け取る人の中で、どんなふうにも変貌を遂げる。
ある人は、思っている、今自分はここにいる、と、自分というものを確かめるだろうか。
ある人は、思うということが自分だということだと、思うことの必須と奥深さを知るだろうか。
ある人は、思うことが生きていること、思わなくなったら死んだも同じ、と、思うことと生を繋げるだろうか。
方法序説には、この言葉に至るまでの説明がずらずらずらずら書かれているが、それだって読み手によって解釈は異なる。しかもこの言葉は、ゴールでも何でもなく、道の途中にある。この言葉の本当の意味など知られなくても、デカルトはヘソを曲げたりしないだろう。なぜなら哲学書は(最近のはどうだかわからないが)、人間がみんな元気に明るく生きることを望んで書かれているように、私には思えるからだ。自分の書いた言葉で、誰かが元気になるなら、まあいいか、と思ってくれる気がするのだ。
だけどやっぱり、哲学書は人生案内書ではない。
例えばデカルトの、"我思う、ゆえに我あり"。
この言葉が、なぜこんなにも自分を支えるのか、と考えて初めて、人生案内書となる、と思う。どうして今、自分にこの言葉が、この書が必要なのか、どうして自分は、支えてくれる言葉を探しているのか、そこを考えることが自分であり、人生であり、哲学だと思う。人生案内は自分がするしかないのだ。
哲学書は、ニーチェ曰く、血で書かれている。開けばぐっとくる言葉があって、今日から自分は生まれ変わる、そんなことを期待して手に取ると、ヤケドするかもしれない。
他人が言った言葉をそのまま受け取って、一時的な元気を得たとしても、その後には、もっと大きな虚無みたいなものが待っている時もある。哲学の扱いは慎重に、危険なものであると、思えなくもない。
けれど、自分を解剖し、病巣を見据え、それでも生を選んだ時、哲学書は人生案内書どころではない、血となり肉となり、自分に埋め込まれ、共に生きるものとなるのだ。