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雑記『百年の孤独』⑤(p129〜162)ーー兄弟の豹変と変貌

前章末に、あわれにも木に縛りつけられたホセ・アルカディオ・ブエンディア。じつは彼が話していた「流れるような、だが一語も聞き取れない言葉(p127)」はラテン語であった。アウレリャノとレメディオスの結婚式のために「低地の向こう(p132)」から招かたニカルノ・レイナ神父とのやり取りにより、それが判明する。

すわっている椅子(いす)ごとニカルノ神父の体が地面から持ちあがったとき、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは腰掛けの上でかすかに背を伸のばし、肩をすくめて言った。
「それはきわめて簡単なことだ(ホーク・エスト・シンプリキシムム)。その男は物質の第四態を発見したのだ(ホモー・イステ・スタトゥム・クアルトゥム・マーテリアエ・インベニト)」 

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p134)

「物質の第四態」とは、固体・液体・気体の三態に次ぐ状態であり、プラズマを指す。物資は温度や圧力によっていずれかの状態をとるが、気体が高度に電離して陽イオンと自由電子に分かれた状態をプラズマという。例えばオーロラは天然のプラズマである。

しかし、ここで議論になっているのは、「マコンドの住民の魂の荒廃ぶり(p132)」に胸を痛めた神父が教会建設資金集めのために始めた、「湯気の立った濃いチョコレート(p133)」を飲み干して自らの体を「一二センチほど浮きあが(p133)」らせるという、「空中浮揚術の実験(p134)」の原理をめぐってのことだった。神父は「この公開実験に神の力が働いている(p134)」と主張している。その反論として、プラズマは有効なのだろうか?

17世紀の哲学者スピノザは、主著『エチカ』において、汎神論的体系全体の論証を行う。幾何学的様式といって、「定義、公理、定理、証明などを積み重ねながら体系を構築していく(國分巧一郎『スピノザ 読む人の肖像』岩波新書 p127)のが特徴だが、そのうちの定理の一部が以下である。

定理一八 神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。 

 (『エチカ 倫理学(上)』「第一部 神について」 スピノザ 著 畠中尚志 訳 岩波文庫電子版)

「在るものはすべて神のうちに在り」、「神はその中に在るものの原因である」とするスピノザの論証にのっとれば、「空中浮揚術」であろうとも、すべての事物の原因は神にほかならない。この立場を、ニカルノ神父も取る。

「この事実は神の存在を何らの疑いの余地なく証明するものだ(ファクトゥム・ホーク・エクシステンチアム・デイ・プロバト・シネ・ドゥビオー)」

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p134)

スピノザによれば、すべての現象は神の摂理に従う。ここでは自然法則と言っていいかもしれない。

神には外部がないのだから、自分以外のものから影響を受けることがない。(中略)外部からの影響が一切考えられないのだから、神は存在し、また作用するにあたって、自身の法則以外のものに左右されない(第一部定理十七)。(中略)すべては神の法則、すなわち、自然の法則にしたがって起こる。だから自然の法則に背く奇跡など存在しない

(國分巧一郎『スピノザ 読む人の肖像』岩波新書 p152~153 ※太字引用者)

すべてが神自身の法則、つまり自然法則に従うとすれば、「空中浮揚術」は奇跡ではない。その点でホセ・アルカディオ・ブエンディアの主張と神父のそれにたがうところはない。
もしかしたら、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは、「頭がおかし(p135)」くなってはいないのかもしれない。スピノザが『エチカ』で用いたラテン語を話せるのは、ホセ・アルカディオ・ブエンディアの「正気」を裏付ける。

ラテン語はいわば現在の英語に相当する国際語であり、(中略)現在の英語が英語圏の人々にとっての第一言語であるのに対し、ラテン語は誰の言語でもなかったという違いには留意する必要がある。ラテン語は誰の言語でもなかったからこそ、普遍性を目指す学問の言語にピッタリだったのである。

(國分巧一郎『スピノザ 読む人の肖像』岩波新書 p152~153)

事実、「ホセ・アルカディオ・ブエンディアの正気にいっそう驚嘆させられた(p135)」ニカルノ・レイナ神父は「自分の信仰が心配になり、その後は二度と彼のもとを訪れようとしなかった(同)」。

さて、ホセ・アルカディオ・ブエンディアのラテン語を解する者が、もう一人現れる。無事に初潮を迎え、寝小便の矯正のため「熱い煉瓦(れんが)の上で用を足させ(p129)」られたうえでアウレリャノと婚礼を済ませたレメディオスである。

その日からレメディオスは、どんなにつらいときでも忘れない強い責任感、つくりものでない愛嬌(あいきょう)、落ち着いた自制心などを示しはじめた。誰に言われたわけでもないのに、ウェディングケーキのいちばん良いところを切り分けて、皿にフォークを添えてホセ・アルカディオ・ブエンディアのところへ運んだ。雨風にさらされて色褪せた大柄な老人は(中略)感謝の微笑を浮かべて、(中略)指を使ってケーキを食べた。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p130~131)

「レベーカとアマランタのあらそいに割ってはいる勇気のあるのも彼女にかぎられていた(p140)」し、「ホセ・アルカディオ・ブエンディアの世話という骨の折れる仕事もすすんで引き受けた。食事を運び、毎日のしもの面倒をみ、石鹼(せっけん)とへちまで体を洗ってやり、(中略)亡くなる前の何カ月かは、下手くそながらラテン語で話ができるようになっていた(同)」。町長・ドン・アポリナル・モスコテの7人の美しい娘から、幼いレメディオスを選んだアウレリャノの目は、節穴ではなかった。

一方、そのほかのブエンディア家の面々は、いつもどおりであった。
レベーカはピエトロ・クレスピとの結婚式をアウレリャノたちと同日に行う予定だったが、前々日にピエトロ・クレスピのもとに母親の危篤を告げる手紙が届く。これが「誤報」であった。結局、悪意のある手紙の差出人は「わからずじまい」(p130)で、ウルスラがアマランタを問い詰めても「泣いて怒り」、「無実を誓った(p131)」。

そのアマランタは、焦っていた。
日延べとなったレベーカの婚姻は、ニカルノ・レイナ神父の教会のこけら落としと決まった。当初。アマランタは資金集めに10年はかかると見積もっていたが、ウルスラとピエトロ・クレスピの寄付で大幅に短縮され、「完成まであと二カ月たらず(p138)」というところまで来てしまった。「花嫁衣裳に入れたナフタリンの球を捨て(同)」てドレスをだいなしにする作戦も失敗に終わる。

この数カ月というもの、彼女はこの時がくるのを考えて恐怖におののいていたのだ。レベーカの結婚式の決定的なさまたげになるものを思いつかなければ、その頭からひねり出したあらゆる手段が失敗に帰した最後の瞬間には、毒殺だってやりかねない自分であることを心得ていたからだ。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p139 ※太字引用者)

アマランタはいつだってレベーカの邪魔をすることを考えている。レベーカのことを考えている。執着している。そこには「愛」がある。愛は時空を超えるのだった。このままでは毒殺という「願い」が実現してしまう。

ネガティブな「願い」は「呪い」とも言い換えられよう。そして「呪い」はつねに、弱く、正直な者を襲う。

無視できない予想外の大きな障害のために、結婚式はふたたび無期限に延期されることになった。式に予定された日の一週間前、真夜中近い時間に若いレメディオスが、はらわたを裂く吐気とともにこみあげる熱いスープで前を汚して目をさまし、それから三日後に、お腹(なか)にふたごを宿したまま自家中毒で死んだのである。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p139)

まさかの「呪い」の誤爆。アマランタは自らの制御しがたい力の大きさに、おののいた。

レメディオスの死は自分のせいであると思った(p140)

人類は自らの行為に恐怖した(『機動戦士ガンダム』)

ブエンディア家の人々の苦悩は、自らに与えられた能力と、その行使がもたらす結果への恐怖に支えられている。だが、空中浮揚術が「奇跡」ではなく神の摂理によるとしたら、アウレリャノの予知能力やアマランタの「引き寄せの法則」も自然法則に従っている。超能力などではない。彼らはわれわれには超自然的に見える力を、自然のものとして付与された存在たなのだ。

そういう意味では、亡くなってしまったレメディオスは、ブエンディア家にとってはあまりにもまともすぎた。
亡くすには惜しい人材であった。そしてアウレリャノとの子も失われたため、ブエンディア家の直系の血筋は、ホセ・アルカディオとピラル・テルネラの子アルカディオと、同じくピラル・テルネラとアウレリャノの子アウレリャノ・ホセの二人となる。
そのアウレリャノ・ホセを生前、レメディオスは「自分の長男として育てることにきめた(p140)」。その母性本能にウルスラも「びっくりした(同)」。彼女の死後、アウレリャノ・ホセの世話は叔母にあたるアマランタが担うことに決まった。

アウレリャノ当人は、レメディオスの死をどう受け止めたのだろうか。
彼女を得たことでアウレリャノは「生きがいを感じるようになっ(p140)」ていた。一日中仕事場で働き、夜はモスコテ家を夫婦で訪れ、ドン・アポリナル・モスコテとドミノの勝負をした。この習慣はレメディオスの死後も続いた。彼女の死は「彼が恐れていたような動揺をもたらなさかった(p152)」。

それはむしろ、女気なしで暮らしていたころに経験したものに似ている、孤独で、消極的な失意へと徐々に解消していく静かな怒りの感情だった。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p152 ※太字引用者)

たしかにアウレリャノはレメディオスを得ることで「生きがい」を得た。そして彼女の死によりそれを失った。だがそれだけだった。孤独と怒り。これはじつは、短い夫婦生活の間も絶え間なく彼の心の底を流れていた。

アウレリャノはドン・アポリナル・モスコテとドミノをしながら雑談をした。ドン・アポリナル・モスコテは彼を気に入っており、再婚を勧め(「わしにはまだ六人も娘がいる。よりどり見どりだよ)」、政治的に無知なアウレリャノに、保守党と自由党の対立、間近に迫る選挙についておおよその説明を授ける。

このころ、ブエンディア家との縁組で威信を高めたドン・アポリナル・モスコテは、学校の建築を当局に認めさせ、その世話をアルカディオに任せた。街の大部分の家を(やっと)青く塗らせた。カタリノの店を移転させ、いかがわしい店を閉じさせた。銃を持った六人の警官に治安維持を受け持たせた。要するに、ホセ・アルカディオ・ブエンディアの「乱心」後、町長としての責務を果たしたわけだ。

別の見方をすれば、ホセ・アルカディオ・ブエンディアはマコンドへの「外」からの政治的干渉の防波堤となっていた。もっとも、政治的勢力としてのドン・アポリナル・モスコテは「飾りもののような存在(p156)」にすぎなかったのだが。
かくしてマコンドで初の選挙が行われ、保守党が勝利した。しかしその裏側でドン・アポリナル・モスコテが票を操作するのを、アウレリャノは目撃する。アウレリャノの「怒り」は静かに点火する。「政府転覆の野望(p157)」に燃えるテロリスト・ノゲーラ医師との邂逅と決裂を経て、アウレリャノは「アウレリャノ・ブエンディア大佐」を自称して新政府軍として立ち上がるーー。

アウレリャノの豹変のアウトラインは、確かにこのとおりだろう。だが、「孤独で逃避的な性格(p157)」の彼が、友人のヘリネルド・マルケスを含む「三十歳未満の二十一人の男(p161)」を率いて「作戦も何もなしで守備隊を不意打ちし、兵器を奪い、女を撲殺した大尉と四人の兵隊たちを中庭で銃殺した(同)」ことについての説明には不十分だ。

実際には戦争が「三カ月前から始まり、全土に戒厳令が敷かれていた(p160)」状況で、アウレリャノは冷静に「時期を待(同)」っていた。町を急襲する分隊によりノゲーラ医師が銃殺され、「空中浮揚の術で軍を驚かせようとしたニカルノ神父」が「銃の台尻(だいじり)で頭をぶち割られ(同)」るのを。
「二十一人の男」は、ちょうど若きホセ・アルカディオ・ブエンディアとともに「山深くわけ入って西方に海を求めた(p101)」勇者たちの数である。そしてのちにアウレリャノの盟友となるヘリネルド・マルケスは、「同名の町の建設者らの息子(p105)」だった。つまり、父の遠征をアウレリャノは繰り返している。そして、父の「族長モード」と「没頭モード」の極端な切り替えも、きっちり遺伝しているのである。

一方、モード・チェンジどころか、まったくの別人となってマコンドに帰ってきた者もいる。

暑さであたりが静まり返った午後の二時ごろ、不意に何者かが表の戸を外からあけた。その勢いで土台にのった柱がぐらぐらっとしたので、(中略)地震で屋敷が崩れるのだと思った。とてつもない大男がなかへはいって来た。(中略)野牛のように太い首にロス・レメディオスの聖母のメダルをかけ、(中略)かかとに鋲(びょう)を打ったスパッツと拍車付きの長靴をはいており、彼が通りかかると、まるで地震のようにあたりのものが揺れた。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p143〜144)

その男は、あっけにとられているアマランタとレベーカに「やあ」と声をかけ、このときはまだ仕事場で金細工に夢中だったアウレリャノにも「やあ」と声をかけ、台所で立ち止まって「やあ」と言った。「ウルスラはぽかんとなった。じっとその目を見つめたと思うと、あっと叫び声をあげ、(中略)泣きながらその首にとびついていった(p144)」。出奔した長男ホセ・アルカディオの帰還である。

もともと筋骨たくましく、弟のアウレリャノがコンプレックスを抱くくらい体格に恵まれていたホセ・アルカディオであったが、帰還した彼はどうにもレベルが違う。

与えられた部屋にハンモックを吊(つ)って、三日間も眠りつづけた。目をさますと、十六個の生卵を飲んでから、まっすぐにカタリノの店へ向かった。(中略)一度に五人の男を相手に腕ずもうの賭けをした。(中略)カタリノは腕ずもうなど信用できないと言って、カウンターを動かせるかどうか、十二ペソの賭けをいどんだ。ホセ・アルカディオはそれを引きずりだし、目よりも高く差しあげて通りへ放りだした。もとへ戻すのに十一人の手が必要だった。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p144~145)

どうすればこんな怪力が身に着くというのか。
「六十五回も世界を回ってきた(p146)」と主張し、「顔といわず背中といわず、首から足の先まで、刺青のない個所はまったくな(同)」く、「遠い国々で経験した冒険の話をする(同)」この「大男が、かつてジプシーに連れ去られた少年だということを(p147)」ウルスラのみならず、家族のだれもが「信じかねていた(同)」。

実際、アウレリャノが「秘密をわかち合った少年時代をよみがえらせようと努め(p147)」ても、ホセ・アルカディオは「海の生活で記憶しておかねばならぬことがありすぎて、昔のことなど忘れてい(同)」る。残量不足のハードディスクレコーダーで古い録画を消すように、過去の記憶を上書きしてしまったのだろうか。
しかし覚えているはずのないことは覚えていたりもする。レベーカの存在だ。
レベーカはホセ・アルカディオのとりこになってしまった。「ピエトロ・クレスピなどはただのきざな優男(やさおとこ)にすぎないことを悟った。しきりに口実をもうけてまつわりついた(p147)」。

あるとき、ホセ・アルカディオが無遠慮な目つきで彼女の体を見てこう言った。「お前も、なかなかいい女になったな」。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p147)

マコンドの時空は歪んでいる。だから、客観的な事実だけ述べる。ホセ・アルカディオの出奔は第2章である。対して、レベーカのマコンド到着は第3章である。ホセ・アルカディオがレベーカを知っているわけがない。

ホセ・アルカディオは「昔のことなど忘れていた」から適当なことを言っているのか? そもそもこの人物は、本当にホセ・アルカディオなのか? 昔の記憶を失っているのに、マコンドに帰ってくることなどできるのだろうか。

ここでヒントになるのが、レベーカが現れた第3章で起こったことである。つまり、健忘症を伴う不眠症だ。そのとき、ホセ・アルカディオ・ブエンディアをはじめマコンドの人々すべてが、「死の忘却」にあった。そしてメルキアデスの薬で記憶に「ぱっと光が射(さ)した(p81)」のであった。
我々読者は当然、メルキアデスの薬で本来の記憶がよみがえったと考えた。しかし、本当にそうなのだろうか? メルキアデスの薬で復元された記憶が事実であるとは限らない。なぜならマコンドの「正史」はよみがえったその記憶にのっとってつむがれているからだ。

マコンドを離れていて「死の忘却」を免れていたホセ・アルカディオだけが、その「正史」に挑戦しうる。しかし、このホセ・アルカディオ、信用してよいのだろうか。

人間が人間であるための部品がけっして少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なの。
他人を隔てるための顔。それと意識しない声。目覚めのときに見つめる手。幼かったころの記憶。未来の予感。それだけじゃないわ。私の電脳がアクセスできる膨大な情報やネットの広がり。それらすべてが私の一部であり、私という意識そのものを生み出し……そして同時に、私をある限界に制約し続ける。
(『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』)

「人間が人間であるための部品」。つまり、肉体、幼少期の記憶、未来の予感、自身を取り巻く環境。これらの多くが今のホセ・アルカディオには欠落している。そしてそれを補完すべきマコンドの人々を構成する「部品」もまた、正規品ではない可能性がある。

すでにマコンドの歪みは最高潮に達しているのではないか?
そんな心配(?)をよそに、「兄妹」であるホセ・アルカディオとレベーカはあっさりと肉体的に結ばれてしまう。

彼女はそのまま息絶えそうになるのを必死にこらえなければならなかった。この世に生を享(う)けたことを神に感謝するのが精いっぱい、あとは耐えがたい苦痛のなかの想像を絶する愉悦に意識もうろうとして、流れる血を吹取り紙のようにふくんだハンモックの、もうもうと湯気のたつ汗の沼でもがきつづけた。

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p148)

性的にうぶだったり、淡泊だった人が、一気に暴力的なまでのセックスにおぼれてゆく。まるで巻き込まれ事故や竜巻のように。

私は気が狂ったみたいにその人と交わりました。本当に正直に言いますけれど、生まれてこのかた、そんなに気持ちの良い思いをしたことはありませんでした。いや、それは気持ちが良いというような簡単なものではありませんでした。私の肉体は熱い泥の中を転げ回っていました。私の意識はその快感を吸い上げて、はちきれそうに膨らみ、そしてはちきれました。それは本当に奇跡のようなものでした。それは生まれてこのかた、私の身に起こったいちばん素晴らしいことのひとつでした。

(村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第2部 予言する鳥編』 p189)

レベーカはホセ・アルカディオと結婚し、「墓地の真正面に小さな家を借り(p150)」る。「ひと晩に八回、そして昼寝どきに三回も町じゅうの人間の夢をやぶるよがり声」は「死人の眠りを搔き乱す」のではないかと、近所の連中の気をもませた。

唐突にレベーカに振られたピエトロ・クレスピは、それでも火曜ごとにブエンディア家に昼食に呼ばれ、「アマランタもいそいそと、やさしく迎えた(p151)」。「いつまでも子供だと思い、そのつもりで付き合ってきたこの娘」は、ピエトロ・クレスピにとって「思いがけない発見だった(同)」。彼はアマランタに求婚する。

彼女は刺繍の手をやすめなかった。耳のほてりが消えるのを待って、大人らしい落ち着いた声で答えた。
「いいわよ、クレスピ。でも、この気持ちがはっきりしてからよ。あせると、ろくなことがないわ」

(『百年の孤独』G・ガルシア・マルケス 著、鼓 直 訳 新潮文庫 p151)

本当は焦ったほうがよくないか? 戦争はすでに始まっている。

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