Netflix版「阿修羅のごとく」の咲子の部屋にあるマンガについて
タイトル写真は内容と無関係です。
年末年始からこの3連休にかけて、パートナーのトナさんとムチャクチャドラマを見まくった。
多すぎてまとめられないので、とりあえずはNetflixの「阿修羅のごとく」について。
突然のノロケ失礼します。
以上、ノロケ終了。
今回のNetflix版は、マスコミ発表があった当時から二人とも楽しみにしていたので、全7話を一気見。
大 満 足 !
1979年にNHKで放送されたオリジナルの方は、とにかくテーマ曲に使われたトルコ軍楽「ジェッディン・デデン」が有名過ぎる。
テーマ曲がアレじゃないと魅力半減…と思う人もいるかもしれないけど、そんなの全然関係ないぐらい、やっぱり向田邦子のシナリオは凄かった。
Netflix版も、時代設定は1979年のまま、というのも良かった。
ここから先は、あくまで僕個人の感想(長いです)。
セットや小道具の「昭和の再現」は、とても良かったと思う。
ただ、気になったのは、末娘の咲子がボクサーの陣内と同棲していたアパートの室内だ。
若い男女の同棲生活の小道具として、当時のマンガの単行本が枕元に並べられていた。
少年チャンピオンコミックスとフラワーコミックスの背表紙が懐かしい。
背表紙だけで、わかる。
僕は、今でこそ殆どマンガを読まなくなったけど、20代頃までは割と読んでいた。
特に、高校時代は、少年マンガ、少女マンガの区別なく、皆がクラスで話題のマンガを回し読みしてたので「阿修羅のごとく」の時代のマンガには結構詳しいつもりである。
Netflix版「阿修羅のごとく」のシーンで、咲子と陣内の枕元に並べられていたマンガの単行本は、以下の通り(静止してじっくり確認した)。
少年チャンピオンコミックスの「百億の昼と千億の夜」と「ローティーンブルース」。
フラワーコミックスの「風と木の詩」
確かにこれらは、当時有名だった作品だけど…。
「百億の昼と千億の夜」は、少女マンガ界に革命を起こした萩尾望都が、SF作家の光瀬龍の原作小説をもとに、初の少年誌での連載として話題になった作品だ。
あのボクサー陣内が「百億の昼と千億の夜」をコミックス買ってまで読むかなぁ…。
「百億の昼と千億の夜」は、作中に阿修羅王が出てくるので、阿修羅つながりのシャレのつもりなのかもしれないけれど、やっぱり登場人物のキャラクターに合わないと思う。
「ローティーンブルース」は、有名だったけど僕は読んだことがない。
ググってみたら、中学生の学園ものらしいから、まあ、アリだと思ったけど。
でも…。
時代は10年古いけど、「あしたのジョー」で良かったのでは?
「あしたのジョー」の連載が終わったのは1973年。
「阿修羅のごとく」は1979年の話だから、陣内は、「あしたのジョー」の連載終了時は中高生だったはず。
思い出の古いマンガをボロボロになるまで大事に読み続けてる、てのがピッタリだと思うのだけど…。
余りにもベタ過ぎる、という意見はあると思う。
でも、ベタを避けるのだったら、「ベタを超える」ものにすべきでは?
全く意味をなさないものに入れ替えることに、何の意味が?
続いて、咲子の物だと思われる少女マンガ。
「風と木の詩」は、あまり咲子の趣味っぽくない感じがした。
どちらかというと、咲子のようなタイプは、竹宮恵子や萩尾望都や大島弓子に熱中する同世代の女子を軽く鼻で笑いながら、一条ゆかり、里中満智子のドロドロリアル恋愛マンガを好んでいたのではないだろうか?
あ! 牧野和子の「ハイティーン・ブギ」が一番しっくりくるかも!!
「風と木の詩」は、咲子というより、咲子と常に対立している三女滝子こそが好みそうな作品だよ。
滝子は図書館勤務の活字好きという設定だから、マンガは読まないだろうけど。
映画やドラマを見るとき、登場人物の部屋の本棚にどんな本があるか、というのは、重要な演出の一つだと思う。
シナリオで設定されたキャラクターをより深く表現するための大切な小道具だ。
商店街のシーンで、薬屋の「頭痛にノーシン」の旗が登場したように、「当時」を象徴する小道具の一環として、背表紙を見ただけで懐かしさがこみ上げるコミックスを選んだ、というところまでは、わかる。
でも、マンガだって「本」なのだから、中身も重要なのでは?
登場人物が、ちょっと意外な作品を部屋に置いていたら、そこには「別のドラマ」が生まれてしまう。
ドラマ内で重要な役割を果たす意外性ではないのだったら、多少ベタでもそのキャラ「らしい」作品を選ぶのが基本ではないだろうか。
あの当時、僕は高校生で、一冊250円から350円もするコミックスは高くてめったに買えなかった。
だからみんなクラスで回し読みしてたんだよ。
ボクサーを目指す青年とウェイトレスが同棲する共同流し共同トイレのアパートの部屋に高価なコミックスがあるなんて「相当なマンガ好きである」というキャラ表現になってしまうんじゃないかなぁ?
しかも、「数冊」しかないのである。
あれだとお金がない中、厳選して買いそろえた作品群、という意味を持ってしまうと思う。
でも、マンガ好きである、という設定は、シナリオ上にはないのである。
無駄な小道具なのである。
まぁ、僕のように粘着質に画面を止めてまで確認する人は少数派だろうから、そこまでしなくてもいいや、て感じなのかもしれないけど。
実際、僕より6歳年下のトナさんは、僕らの時代とは違い、男の子が少女マンガを読む文化は特になかったとのこと。
竹宮恵子も萩尾望都も大島弓子も里中満智子も一条ゆかりも全く知らない、とのことでした。
だから小道具の「風と木の詩」にも気付かなかったらしい。
トナさんが初めて読んだ少女マンガは、高校の時にクラスメイトがたむろしていたマンガ喫茶で読んだ「ガラスの仮面」だって。
そういえば、自分はなんで20代以降、あんまりマンガを読まなくなったのだろう、と思った。
ただ単に、仕事に夢中で読む時間がなかっただけかも。
でも、小説は普通に読んでた気がする。
なんでマンガ離れが起きたのだろう…。謎。
とにかく、僕は20代以降はリアルタイムであまりマンガを読まなくなったので、「クールジャパン」として世界中で評価されている、いわゆる日本らしい「今のマンガ」を全く知らないのでした。
今から追いつくのもめんどくさいしなぁ…。
話がそれた。
最後に。
「阿修羅のごとく」は、あの時代のジェンダーバランス(ジェンダーギャップ)を完璧に表現した、完璧なシナリオだと思う。
もはや古典。
あくまで、「あの時代」の話だから、リメイク時の時代設定もあの時代でなくては意味がない。
「現代にも通じる部分がある」とか「現代では考えられない」とか、別の時代に生きるそれぞれの観客が個人の感想を持つのは当然と思うけど、ひとつの「歴史」として、ああいう時代があったことは確かだ。
下手に現代風にアレンジを加えるより、まずは、古典として、事実を味わうことも大切なんじゃないかと僕は思う。
古典の再演は、新しい俳優さんが役を自分らしく自分のものとして演じる姿が見られて素晴らしいと思う。
オリジナルはもちろんのこと、今回のネトフリ版の俳優陣も最高だった。
みなさん「楽しみながら」演じてる感じが伝わってきて、見ている方も楽しかったなぁ。
「阿修羅のごとく」のシナリオは完成された不動の古典のスコアなんだから、ショパンコンクールみたいに、定期的に新たな俳優さんにチャレンジして欲しいと思う(個人の希望です)