フーコーの構造主義と脱構造主義


フーコーはフランス現代思想の構造主義~ポスト構造主義の主要な思想家だとされています。構造主義~ポスト構造主義という思想の変遷が示す通り、フーコーは著作ごとにテーマが定められています。

フーコーの著作群を一貫して眺めると、社会の複雑性を縮減する「権力」の把握とその難点を克服することが思想的課題にあると分かります。ハーバーマスと同じく、フーコーは権力を問題視し、それに対してどのように生きるべきか考えた思想家です。

フーコーの主著は『狂気の歴史』、『言葉と物』、『監獄の誕生』、『性の歴史シリーズ』です。

『狂気の歴史』

『狂気の歴史』はタイトル通り西欧における狂人の取り扱いを時代ごとに調査した著作です。時代区分は「古典主義以前」、「古典主義時代」、「フランス革命以後」です。

古典主義以前は中世およびルネサンス期に相当します。
この時代において、社会は狂人に対して極めて寛容だったそうです。狂人は自由に街を歩くことができ、それは日常の風景でした。

古典主義時代(1650年代以降、いわゆる啓蒙の時代)に入ると状況が変わります。率直にいうと、狂人は排除の対象となります。また啓蒙思想の台頭から「理性vs非理性(狂気)」の図式が台頭し、狂人は非理性の代表として思想的にも敵視されます。

古典主義時代はフランス革命によって終わりを迎え、狂人は保護病院に隔離されるようになります。ここに至って狂気は内面の問題と捉えられ、治療法としての心理学が発達し始めます。

『言葉と物』

『言葉と物』では、各時代の認識を可能にする前提(エピステーメー)を明らかにすることがテーマです。
古典主義以前の時代では、「類似」をもとにした認識が行われていました。例えば、「葉」と「歯」は音にしたら同じ「は」ですから、歯の治療には葉を使うのが良い、という認識の方法です。これは私たちからしたら奇妙ですが、古典主義以前の人々が愚かだからということではなく、そういう認識のメカニズムが働いていたからです。

この例のように、言葉と物が関係するのは「類似」しているからであり、言葉と物は同じ次元にあるのが古典主義以前の時代です。

古典主義時代には、認識の前提が「表象」となります。「表象」とは言葉と物の一対一の関係です。ここでは言葉の秩序と物の秩序が別物になっています。

古典主義以後には、認識の前提が「人間」となります。古典主義時以前には同じ次元にあった言葉と物が古典主義時代には別ものになりました。この分離を行ったのが「人間」です。これによって、「人間」には先験的なもの(神や言葉)と経験的なもの(物)が両方流れ込むことになりました。その結果、人間の欲望を重視した学問が発達を始めます。現代経済学はその典型で、前提にホモ・エコノミクス(自分自身に利得を最大化しようとするのが人間)を置いています。


『監獄の誕生』と『性の歴史1 知への意志』

『監獄の誕生』、『性の歴史1 知への意志』においては権力論が語られます。

フーコーは二種類の権力区分を持ち出します。
・抑圧的権力:私たちが一般的に想像する権力で、武力などを背景に上から押さえつけて命令する
・構成的権力:自ら秩序に従う主体を作り出す権力

構成的権力は規律訓練型権力ともよばれます。『監獄の誕生』において、パノプティコンという監獄デザインによって可能になりました。
1.パノプティコンでは囚人側から監視役を見ることができない
2.つまりいつ監視されているか分からない
3.その結果、いつ監視されていても大丈夫なように囚人は自ら従順に振舞う

普遍的な監視があるように錯覚させることによって(錯覚かどうか確かめることはできません)、自分はよからぬ欲望を抱いていないかという内省・告白を促すのが規律訓練型権力の特徴です。

フーコーは『性の歴史シリーズ』の2~4巻で古代ギリシア・ローマに唐突に主眼を移し、自己への配慮という概念を唱えます。
この背景には自らが生み出した権力概念の乗り越えがあります。フーコーは権力は監獄だけではなく至るところにあると考えました。それでは、権力の外部は存在しないので、権力から逃れ出ることは出来ないのではないか?という疑問が起こります。

その応答が自己への配慮であり、権力からの干渉に関係なく自分で自分のことを気遣うことだとされてます。周りの評判やSNSでの煽りを無視して、自分で自分のことを考えて必要な規律を自分で課すという生き方がどこまで有効かはわかりませんが、『性の歴史シリーズ』の最終巻が公刊されたのが権利上の問題で最近だったので、議論が盛んにおこなわれているそうです。

参考文献
大澤真幸 社会学史 2019 講談社現代新書
岡本裕一郎 フランス現代思想史-構造主義からデリダ以後へ-2015 中央公論新社

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