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マレー世界の植民地化をサポートしたマレー人(マレーシア近代史)

イントロダクション
こんにちは、こんばんは、おはようございます!Renta@マレーシアから国際関係論について考える人です!今回のnoteは、近代マレー世界の歴史です。
noteのハンドルネームに「マレーシア」と入れているのに、これまで全然マレーシアの話をしてこなかったことに気づきました…。
ということで、これからは、しばらくマレーシア関連の記事を書いていきます。

今回のnoteのテーマは、「イギリスによるマレー世界の植民地化」です!もっと細かく言うと、

マレー世界にも、植民地支配を再生産した人達がいたこと

について話します。

最近のマレーシア関連の歴史のnoteでは、「マレー世界は中華・インド帝国に勝るとも劣らない」、「15世紀にポルトガルが来たからと言って、マレー世界全体が植民地化されたわけではない」という風に、一般的なイメージとは異なる角度でマレー世界の歴史をお話してきました。正真正銘のヨーロッパの時代である19世紀に入っても、似たようなことが言えるのです。

マレー世界の国家の考え方と西洋の国家の考え方の違い

イギリスによるマレー世界の植民地化で重要なことは、国家の考え方がマレー世界式からヨーロッパ式に変わったことです。この変化がマレーシアという国家の設立にも関わってきます。

それぞれの考え方について、以下の表をご覧ください。

マレー世界とヨーロッパの国家の考え方

まずマレー世界では、自国と他国をはっきりと分ける明確国境線の不在です。もちろんどこからどこまでがどの王族のものなのか、という区別はありますが、ヨーロッパほどしっかりしていません。

国家に求められていたのは、どの領土を支配していたかではなく、支配の対象となる地域の人々にどれだけ影響力を及ぼせていたのか、そしてその人たちから経済的リソースを引き出せるかどうかだったからです。

領土ではなく、王や国家の影響力の話なので、当然国家と国家の境界線がダブることはあり得ます。
加えてマレー世界の国家では河川や海峡は国家の中心になります。というのも海洋民族なので、河川や海峡は運搬に利用できるからです。

これに似た例として、エジプト文明が挙げられます。エジプト文明はナイル川の周りに居住地が発生し、王や官僚はナイルを行ったり来たりすることで、統治を行いました。

逆にヨーロッパでは、自国と他国を明確に分ける国家の考え方です。だから領土の支配が重要になります。なぜなら、どのあたりまでの領土を占めるかで境界線が変わるからです。

つまり、ヨーロッパの国家は領土はダブらないのが前提です。その前提の上に立っているので、領土がダブるのは国際問題と化します。だから解決しなければならないのです。

こう見ると、現代の私たちが如何にヨーロッパ式の国家観に基づいて、国際ニュースを見ているか分かります。というのも、私はやっぱり領土問題は解決するべき対象として見てしまいますし、中国や韓国・ロシアとの領土問題のニュースを見ていると、ある種の脅威を覚えるからです。

また、ヨーロッパ式の国家の見方だと、河川や海峡は国家の境界線になりがちです。ヨーロッパの地図を見ればすごくわかりやすいと思います。特に欧州三国志と呼ばれる英仏独の国境は、綺麗に河川と海峡によって作られています。


ヨーロッパの河川

マレー世界全体の植民地化の始まり

現在のマレー世界の国家(マレーシア・シンガポール・インドネシア)は、ヨーロッパ式の国家の考え方をマレー世界に適用した結果、生まれた国家だと言えます。その始まりが1824年の英蘭協定です。
元々、マレー世界の一部は15世紀はポルトガル、16世紀以降はオランダによって支配されていました。しかしそこにイギリスが参入、ヨーロッパ型の海峡によって国境をわける形で、マレー世界全体が分割されました。具体的にはマラッカ海峡を境に、北側がイギリスの植民地に(英領マラヤ)、南側がオランダの植民地に(オランダ領東インド)なりました。

また、地図の技術の発達に伴って緯度経度による国境線を引くことも後押しとなります。ヨーロッパ人は緯度経度に基づいて国境線を引くことを合理的な領土区分だと考えていたようです。
これでボルネオ島の北半分が現在のマレーシアに、南半分がインドネシアに属することも説明がつきます。なぜなら、マラッカ海峡を通る緯度線をボルネオ島に伸ばせば、現在の国境にだいたい重なるからです。

オランダ領東インドと英領マラヤの国境

こうして、マレー世界はヨーロッパ式の植民地国家になりました。このような変化に対して、すべてのマレー世界の住民たちが従属もしくは抵抗したかといえばそうでもありません。むしろ、植民地国家体制を積極的に受け入れた人たちもいました。その例が、ジョホールという現在のマレーシアの州を統治していた王様であるアブ・バカーです。

アブ・バカーは領地であるジョホールを、海峡を挟んで向こう側にあるシンガポールとは別の国家として捉えました。ヨーロッパ式の国家では、王様である自分をジョホールの領土においては絶対的な権力者だとみなすことができます(主権者)。当時のシンガポールでは胡椒生産が盛んだったので、主権国家の主の権力を使って、「ジョホールの領海を通るのだから、必ずジョホールの港に寄れ」と命令します。そして、胡椒貿易によって利益を得たのです。

アブ・バカーはただヨーロッパに圧倒されたかというと、そうではありません。「1824年の条約でシンガポールから10マイル以内の海はイギリスの影響圏としたじゃないか」と反論するイギリスに対して、「国際法に則れば国境線は中間地点に置くべきだ」と主張しているので、むしろイギリスに反抗している側面もあります。
しかし、これはあくまでも「自然境界によって国境を明確にわける」というヨーロッパ式の国家の考え方の中で生まれたものです。
だから、アブ・バカーの行為はヨーロッパ的な国境の引き方を再生産するものだったといえます。実際に、マレーシアとシンガポールは今や別の国ですし、1824年の英蘭協定の影響でマレーシアとインドネシアも別の国となったからです。

まとめ

私たちは、この3国があるのが当たり前な状態で暮らしているから分かりづらいですが、この3国はそもそもマレー世界として緩やかに繋がっていたはずです。ヨーロッパの力が強まるにつれて、ヨーロッパ式の思考様式や社会のあり方が強制的・自発的問わずに広まっていったのが近代という時代だったのだと言えます。

次回は番外編です。今回のnoteでの重要概念だったヨーロッパ式・マレー世界式の国家の考え方について、もう少し細かく見てみます。具体的には

  • 領土ではっきり国境をわけてしまうヨーロッパ型思考の源泉をフランスの哲学者ジャック・デリダの思想から導く

  • マレー世界の近代以前の国家の考え方を紹介し、ヨーロッパのそれと比較する

ということを考えてみようと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました!

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