中国仏教の歴史から見るシルクロードの影響と限界
イントロダクション
こんにちは、こんばんは、おはようございます!Renta@マレーシアから国際関係論について伝える人です!
今回は、中国への仏教伝来とその後のローカリゼーションについて見ていこうと思います。
中国仏教はシルクロードから中国に伝わりました。しかし、インド原産そのままというわけではなく、大幅にローカライズされています。今回はその歴史を紐解き、シルクロードの文化的影響の限界を探ってみようと思います。
中国仏教の大まかな特徴
大まかな特徴を知っていた方が歴史は追いやすいものです。そこで、まずは中国仏教がどのようにローカライズされたのか特徴を述べておきます。
まず中国における仏教は、中国の伝統的な思想と接触し、独自の形態を形成しました。
儒教、道教、民間信仰など他の宗教的伝統と共存してきましたが、複雑な相互作用を行い、互いに影響を与えてきました。その中で、仏教は独特の調和・競争関係を築き上げ、異民族統治という政治的な目論見も中国仏教の繁栄につながりました。
また、中国仏教の繁栄は、仏教的な建築物や文化から推測可能です。例えば、洛陽の龍門石窟や北京の天壇などが挙げられます。
これを踏まえた上で、中国仏教の歴史を見てみましょう。
シルクロードを通じた仏教伝来
シルクロードとは何かのおさらいをしつつ、仏教の伝来ルートを見ていきましょう。
シルクロードは、中国の首都である長安から地中海に至る貿易路網であり、中国を中央アジア、南アジア、中東と結びつけました。1世紀ごろには、シルクロードの陸路から仏教徒が中国に入った可能性があるそうです。
仏教はシルクロードによって中国だけではなく、ユーラシア大陸中に広がります。これはそもそも、シルクロード沿いの貿易が多様な宗教の伝播や拡大と密接に関係していたためです。
ちなみにこの時期の有名な仏教伝道師のリストを見ると、中央アジア出身の僧侶が多数含まれています。有名なのは、パルティア出身の安世高(あんせいこう)であり、様々な経典の初期翻訳を行い、翻訳の初期基準を確立しました。また、スキタイ出身のローカ人クシェーマは、重要な大乗仏教テキストを多数翻訳しています。
1世紀ごろに中国に伝わったとされる仏教は、220年に漢王朝が終わる頃には、中国の様々な地域に多数の仏教施設の建築に成功します。ここでポイントなのは漢王朝はそもそも儒教を国教として成立した国だということです。
仏教は天竺(インド)から来た異宗教ながら、中国で生まれた儒教と共存することが出来ました。これはもしかしたら、儒教が焚書坑儒の経験があるためかもしれません。
これによって、中国の分裂期に興亡した様々な王国や帝国全体で仏教が急速に成長するための舞台が整いました。
漢王朝が滅んだ後、三国志の時代になったり北朝と南朝に分裂したりと中国は混乱の時代に入ります。
春秋戦国時代に孔子・老子・孫子・墨子・韓非子などの諸子百家の時代になったように、社会的に不安定な状況は、新しいアイデアに対する知的・宗教的な開放的な雰囲気を生み出します。
この分裂期に仏教は中国での勢力を伸ばしました。
というのも、仏教は知識人に人気となり、美的感覚や芸術的創造に大きな影響を与えました。この時期の宗教熱の象徴として、アジア、ヨーロッパ、アメリカの様々な博物館に所蔵されている仏教美術品があります。また、北魏時代に建設された雲崗と龍門の洞窟寺院群も有名です。
また、仏教は政治的正当化の道具としても役立ちました。北方王朝の支配者たちの多くが中国人ではなかったため、仏教の普遍主義的な精神は、民族的・文化的に多様な人々を統治する上で有用であると考えられました。北方鮮卑の拓跋氏や他の支配部族にとって、仏教は社会政治的な効用があるため魅力的でした。仏教と国家の密接な関係を示す顕著な例として、皇帝が仏陀と同一視されることがありました。
中国仏教の全盛期とその没落
隋・唐の時代に全盛期に
隋・唐時代には、文学や詩において仏教のテーマ、アイデア、イメージが頻繁に登場し、文化圏における仏教の最盛期となります。
また、多くの文献や仏教寺院の碑文において、文人たちは自身の信仰心を語り、仏教教義の崇高さや効果を説明しています。有名な詩人である王維(701-761)や白居易(772-846)などの作品が有名です。
また、仏教の成長は経済や政治にも大きな影響を与えました。多くの寺院が公式な地位を持ち、国家から資金援助を受けていました。信者たちからの寄付も重要な収入源であり、社会的エリート層だけでなく一般市民からも多くの寄付がありました。一部の寺院は土地所有者でもありました。その他の収入源としては、質屋などの商業活動がありました。
皇帝は宗教活動を支援し、聖職者たちに税金や兵役義務からの免除など特権を与えましたが、宗教とその機関を管理するための政策も実施しました。
儒教との競争的な関係
唐の時代以降、仏教は影響力を失ったとされています。儒教がより大きな力を中国内で持つようになったからです。
しかし同時に、仏教と儒教との関係はもっと複雑です。例えば、明朝後期(1368-1644)には、地方の貴族の多くが新儒教主義的な教育や忠誠心を持っていたにもかかわらず、仏教寺院を頻繁に訪れ、重要なパトロンとなっていました。
つまり、仏教は儒教との競争関係にありながらも調和的な関係にあったと考えることが出来ます。
また、中国仏教は元々の仏教よりも集団救済の傾向が強いそうです。釈迦が始めた仏教は、個人が修行して悟りに至るものです。現在では上座部仏教と呼ばれています。これに対して中国は大乗仏教の勢力圏です。大乗仏教では、修行をしている菩薩が他の全員を救うために修行します。
これは家族重視の儒教の影響を受けているのかもしれません。
中国仏教の影響力の低下
中国仏教は近代に入って影響力が低下します。最後にその過程を見ていきましょう。
まず、19世紀末から20世紀初頭にかけて中国が混乱期に入ります。
1894年に日清戦争が起こり、その余波で1903年には義和団事件が起こります。これらの一連の出来事から1912年には清帝国が滅んでしまいます。
これらの政治的混乱に加えて、新しく中国を統治することになった国民政府の政策も拍車をかけます。
修道院への圧力やその他仏教的な施設の私的・軍事的利用の横行、さらには修道士の強制徴兵などによって仏教の影響力が低下します。宗教だけでは近代化を果たせないと思われたことも大きいでしょう。
このような傾向は中華人民共和国での文化大革命によって加速します。そもそも共産主義は宗教を否定するとされていたからです。
さすがに現在の中華人民共和国では、修道院の回復や教育機関における仏教教育が促進されているようです。全盛期ほどの影響力は失ったとはいえ、暗黒期は何とか切り抜けたように思えます。
まとめ
仏教はシルクロードから中国に伝来し、儒教との競争的共存関係を通して浸透していきます。なので、個人救済よりは集団救済に重きを置くようになっています。
また、国家による介入も見逃せません。全盛期も暗黒期も国家による影響が大きいからです。現在の仏教は、近代の混乱を生き延びて何とか安定期に入ったように思えます。
最後までお読みいただきありがとうございました!