ベンヤミンの『暴力批判論』
今回はフランクフルト学派の1人であるウォルター・ベンヤミンについてです。
ベンヤミンには多種多様な著作があるので、自分の研究に関連がありそうな「暴力批判論」という論文を取り上げます。
この論文における課題は、宗教戦争における聖戦論のように「目的は手段を正当化する」ならば、暴力の正当性は目的の正当性に回収され、目的が正義ならば過程でどんな残虐なことをしてもいい様に考えられてしまう。目的を上位に置いた考えをいったん置いて、手段としての暴力そのものの原理を解明できないか?というものです。
言い換えると、「法の支配」は一見むき出しの暴力による支配を免れているが「法の暴力」と言えるものがあるのではないか?ということ。
もちろん、「法の支配」は合法的支配と言い換えることが出来、「法」という非人格的な規範の体系が措定されたうえで、「法」に適切に則っているかどうかが支配の正統性の基準になるので、一定の合理性はあると考えられます。
それでいて、その合理性は手続きに従っているという形式的なものに過ぎないので「法」の中身自体の正統性は棚上げされています。
「法」の正統性がどこから来るのかというと、「憲法」です。「憲法」の「正統性」は主権を代表する「国民」が「憲法」を制定したことにあります。
この説明には問題点があり、「憲法」が制定される前には「国民」は存在しないということです。なぜなら、「国民」は「憲法制定」によって国家誕生と同時に発生するからです。「憲法」の正統性は「国民」の存在を論理的に先取することによって行われています。
これは、「法措定暴力」と呼ばれています。これのどこが暴力かというと誰が「国民」になるのかを恣意的に決定してしまっているからです。社会契約説から考えれば、国家の発生は個々人の自由な決定によって為されます。しかし、「憲法」と「国民」の関係を考えれば、自由意志ではなく「憲法」の都合によって誰が国民であるか、そうではないかが決まります。この恣意性が暴力だと言うのです。いったん国民・非国民の線引きが為されると、この線引きを維持するために暴力が使用されます。具体的には警察や軍隊です。これは法維持暴力だと呼ばれます。
ベンヤミンは法措定的暴力と法維持的暴力は合わせて神話的暴力と呼ばれます。
神話的暴力は絶え間ない暴力を呼び寄せます。人間が多様である限り、線引きを侵犯してくる他者が絶えず発生し、その度に暴力が行使されるからです。
ベンヤミンが法措定的暴力と法維持的暴力を神話的暴力とまとめたのは、神的暴力という概念を提唱するためです。神話は古代ギリシアなどヨーロッパ世界にもありましたが、キリスト教という一神教によって圧迫されました。これをメタファーとして神話的暴力をいっさい吹き飛ばす神的暴力をベンヤミンは求めたのです。
神的暴力は単なる手段なのではなく、目的に関わるものだとされています。神話的暴力は「正しいのは自分だ」という主張を押し付けるための暴力の行使に繋がるのに対して、神的暴力は真に正義の名に値する純粋な目的そのものを体現した暴力であり、神話的暴力の循環を断ち切るものだとされています。
神的暴力は法破壊的暴力だと呼ばれています。
「暴力批判論」において神的暴力はやや唐突に出てきます。神話的暴力に比べて著述も抽象的です。また、「神話的暴力の循環を断ち切るという目的があるから神的暴力は正当なのだ」という主張にも見えます。これでは元々の課題である目的-手段連関から逃れられているのか微妙です。実際、第一次世界大戦は「すべての戦争を終わらせるための戦争」だとされていました。これが神的暴力だと言えるのでしょうか?謎が多く残されるだけに、ベンヤミンの「暴力批判論」は議論が盛んに起こるようです。
参考文献
細見和之 フランクフルト学派 2014 中央公論新社
上野成利 暴力(思考のフロンティア) 2006 岩波文庫