狂っている位がちょうどいい

「あの女誰」
先に端を発したのは私の方だった。
狭いアパートの小さな机。その対角線上に、私の彼氏は小さく縮こまっていた。小刻みに震えるところが可愛いとも思っていたが、今はそれがただただ不快でしかない。
私は部屋を見渡した。
私の部屋。私が契約した、家賃も払っている部屋。女の子らしい部屋にしたいと、ガーベラ色のカーペットや雑貨や柑橘系のディフューザーとか、色々買い揃えたものだ。
それがどうだ?
惨状を見る限り、この部屋でコトが起こったのは間違いないだろう。整理された本棚は崩れ、雑貨は散らばり、ベッドは…乱れている。
もはや怒りを通り越して、逆に面白くなってきたところだ。この男は今からどんな都合のいい言葉を並べるのか、私の胸は浮き足立っているほどだ。
「…元カノ」
男は一言、消え入りそうな声で言った。
元カノ。先程の女を脳内再生する。自分とは対照的な雰囲気であった。ミステリアスで髪が長く遊び慣れていそうな感じ。それに、私よりもスタイルが良かった。
さらに詰問は続く。
「ここは誰の家?」
「……」
「ここは誰の家って?そう聞いてるんだけど。そんなに難しい質問かな」
「と、巴の家…です」
情けない声だ。私はこの男のどこに惹かれたんだろう。帰ってくるまでは確実に愛していたのに、この声でさえ醜く聴こえる。
「そうだよね。私の家だよね。そこに輝也は居候してんだもんね」
「居候って、同棲じゃ」
同棲?
同棲と言ったのか?この馬鹿は。
「家賃、一銭も払ってないよね。それでよく同棲って言えるよね」
その言葉で輝也は黙ってしまった。
実際、当初は家賃を折半するという話だった。彼もフリーターとはいえ、アルバイトなどで少なからず収入はあった。しかし彼にもプライドはある。だから、家賃はちゃんと定職についてからでも大丈夫だと、私は譲歩していた。
それが良くなかった。彼は私の言葉に甘え、バイトをやめ、少ない収入をパチンコや競馬に当てだした。開いた口からは、「ちゃんと返すから」。
案の定、彼からの振込は1度たりともなかった。
自身の中にある光がすぼんでいくのを感じる。
「出てって。私の家から消えて。もう1秒だっていて欲しくない」
当然の帰結だと思った。不貞行為を働いた男とこれ以上一緒にいたくない。浮気、しかも彼女の家をラブホ代わりに使ったこの男を、許せる人間がいるとしたら教えて欲しいぐらいだ。それは聖人君子でもなんでもないだろう。ただの精神異常者だ。
だが、彼には私の言葉の意味がわからなかったらしい。
言葉を聞くやいなや、地面に頭を擦り付け泣き出したのだ。
ごめんなさい、僕が間違ってました。ごめんなさい。
そう、そんな類を言うのだと想像していたから、次の言葉に私は唖然とした。
「ごめんなさい。それだけは勘弁してください。金ないんです。宿も宛がないんです」
プツン。
私の中の何かが艀飛んだ音がした。それが理性なのか、はたまたこの男への関心なのか。
被害者面で永遠に謝罪をする機械よりも相当にタチが悪かった。
あーそうか。この男には、痛む心もないんだ。私は彼のことを一等星だと思っていたが、彼にとっては変哲もないお世話さんだったわけだ。
あははははは。
馬鹿らしい。
あははははは。
本当に馬鹿らしい。
私は財布から1万円札を3枚彼の前に捨ててやった。鰹節のようにヒラヒラまう万札を、彼は命の綱をたぐるように必死で掴み取った。その様子がおかしくておかしくて。
おかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくておかしくて、愛らしかった。
そうだ。私が彼のことを好きになった理由。思い出した。

私は彼に言った。
「その3万はあげる。それでどうにかして」
「そんな。3万だけでどうしろって言うんだよ」
少しの反抗もじろりと私が見るだけで黙る。
なんて非力な人間なのでしょう。なんて無様な生き方なのでしょう。
私は笑った。
心ここに在らず。
まるでリアルなテレビゲームをしている感覚に陥っているようだ。
馬鹿を相手にするのは疲れた。
「ふざけんなよ、巴!俺に餓死しろってのか?」
そうよ、と返す私に輝也は迫ってくる。
「お前、俺のかのじょだろ?なんでお前にそんなこと言われなきゃいけねぇんだよ。俺が悪いってのか?お前がやらせてくれねぇから、こっちだって仕方なく元カノ呼んだんじゃねぇか。お前が悪いんだ」
彼の想像力の豊かさは私の想像をはるかに超えていた。素晴らしい。
私は台所へと駆け込んだ。すぐさま彼は血相変えて追ってくる。怒鳴り、ものを破壊し、私の胸ぐらを掴む勢いだった。
身の危険を感じた。
だから。
出かける時に買っておいた包丁で彼の腹部を刺した。
意表をつかれたようで、彼は私と腹部のものを交互に見やっている。信じられないような目をしていのが不思議でならなかった。
なぜ私がこんな扱いを受けていて、あなたに殺意を抱かないと思えたの?
頭の悪い彼でも察せたのか、急いで自分の携帯をまさぐる。が、私がそれを見逃すはずはなかった。
腹部の刃物を抜きとり、もう一度彼を貫いた。何度も何度も繰り返した。手が重い。臭く、熱い。
気がついたら、彼の腹には穴が複数あった。
彼を見る。
そこには痛みと恐怖と怒りが入り交じった、なんとも醜い顔があった。
それを見た時、私は息が上がっているのと涙が流れているのを感じた。
手は鮮血でまみれ、お気に入りのカーペットはすっかりその美しさを手放していた。もう同じものを買う勇気はなかった。
愛というのはこんなにも空虚で、つまらなくて、そして温かいものなのだ。
私は涙を手の甲で拭った。スマートフォンを取り出し、真っ赤な指で緊急連絡の「110」と押す。

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