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科学と信仰、疑うことと信じることの関係について

今の世の中を見渡してみますと現代社会は科学の発展と宗教への信仰によって成り立っていると言えるのではないでしょうか。

科学は私たちの生活を豊かにしてくれます。科学の成果はわかりやすいですね。それは目に見える形で私たちに利益を与えてくれる。スマートフォンも科学、金融経済も科学が作り上げたものです。
一方で、信仰はどうでしょうか。中東では聖書を発端にする戦争が2000年の時を経た今も続いています。日本においても日頃意識されずとも、オウムサリン事件、安倍元首相襲撃事件など、社会的な事件は宗教との関わりが深いわけで、実は宗教の存在は私たちの思っている以上に大きな影響を与えています。もう少し日常に即した話をするなら、私たちの使う日本語は仏教の概念が素地にありますね。「自由」「安心」「大丈夫」「迷惑」などなど、知らず知らずに身に染み込んでいるのが宗教というものの特徴なのではないでしょうか。

科学と宗教の関係性について、最も興味深い例が見られるのはアメリカ合衆国のあり方ではないでしょうか。世界最先端の科学技術を有するこの大国は、聖書を手にかざして宣誓をすることで大統領は権力を有します。
「科学はキリスト教の解毒剤」と解剖学者養老孟司は語っています。キリスト教は原理主義です。この原理主義を分かりやすく言うと、「絶対的な正解」を与えるものであって、ある「正しさ」を決める思想です。宗教的な正しさが十分に機能していた時代はとても長かった。だいたい近代科学が打ち立てられる17世紀までは絶大な権力を持っていました。ただ時代が経過するにつれて宗教的な「正しさ」とは異なる「正しさ」を人は発見することになり、近代科学の「科学的な正しさ」が「宗教的な正しさ」に対置される形で出てきました。両者の考え方は他方を補う形で進展して、今のアメリカが出来あがりました。

科学と宗教はそれぞれ別々の形をしているけれど、その出どころとしては同じと言えるかもしれません。私が近頃感じることは、対立関係にあったともいえる科学と宗教の関係性、あるいは、「疑うこと」と「信じること」の関係性が変化してきたのではないか、ということです。

やや抽象的な物言いになってしまいますが、科学的思考の特徴を端的に言い表すと、「数量化」と「因果律」の結びつきから「数理的な合理性」を説明することです。そして、この式が成り立たないことに対しては非科学的だとして、科学の対象として扱わないことです。

科学者の根底にある精神は「疑うこと」です。合理的な判断ができない場合、全ては仮説になります。これが本来の科学的な態度ですが、昨今の科学に対する私たちの見方は「疑う」姿勢が抜け落ちてきて「信じること」に変化しているんじゃないでしょうか。科学的に正しいことが正しいことになっているのが現代の特徴です。合理的であることは真であって、善であるという価値観を作り出しています。
少し前から流行っている「エビデンスは?」という一種の殺し文句は、信用に足るデータを出せという意味ですね。この背景には「エビデンスがあれば信用に足る」という考えがあります。「エビデンスを信用する」と言っているんです。これは根本的にズレがあります。科学的であることが信じることに変化してしまっているんです。なぜこの変化が起きてしまうのか。答えは簡単です。疑うことによって発展してきた科学が、疑うことをしなくなり信仰の対象になっているんです。科学が信仰の対象に昇華したとも言えるでしょうか。

信仰は宗教の用語ですね。信じることで人は救われます。なぜなら人生の重要な問題に答えはないからです。どう生きるのか、死んだらどうなるのか。こういう問題に答えはありません。ただ答えがないと不安になる。だから、宗教は「信じること」を唯一の条件に置きます。信じれば救われる。

先ほど申し上げました通り、宗教は原理主義的になります。その方が強い宗教になるからです。その点で、仏教は特異な宗教です。アジアの宗教戦争がキリスト教圏に比べて格段に少ないのは仏教の広がりと切っても切れない関係なのではないでしょうか。
宗教は「正しさ」を与えてくれます。「私は正しい」と思うことは人が安心できる大きな要因です。宗教と科学は「正しさ」の戦いを繰り広げてきましたが、最近では科学が宗教化しているように見えます。宗教も科学も「信じること」の対象になりました。これは考えてみれば当然のことで、宗教と科学はどちらも原理主義の思考で成立しているわけですから、行き先が同じであることは不思議じゃありません。

科学が宗教化、「信じること」の対象になった世界は「正しさ」が一元化します。要するに、「科学的に正しい」と「宗教的に正しい」が同じ次元に置かれることになります。これだとどちらが正しいのかは信仰の自由があるように、何を信じても自由だよ、ということになりますね。最近の人は他人に対してあまり口うるさくしないですよね。多様性と言って、他者の自由を認める姿勢がずいぶん目立つようになりました。人には人の信仰がある。信じるものはなんでもいい。素晴らしいことではありますが、何にでも作用と反作用があります。

2024年のアメリカ大統領選でドナルドトランプが勝利しましたが、彼の支持者たちはトランプこそが救世主であって、陰の政府であるディープステイトと関係していると信じる陰謀論者がいます。


これも「ひとつの信じること」ですね。彼らは科学的な反証を聞かされても聞く耳を持ちません。なぜなら、「科学も信じることの対象であり、陰謀論も信じる対象であるなら、何を信じるかは個人の自由であって、他人にとやかく言われる筋合いはない」という極めて論理的な考えのもとに動いているからではないでしょうか。この考えを支えるものは、現在の科学的思考と全く同じと言えるのではないでしょうか。「疑うこと」をせずに信じたいものを「信じること」だけする。エビデンスは正しいのであれば、何かしらの納得がいくエビデンスが提示されればそれは正しいことになる。「エビデンスが正しい」とする根底にある姿勢は今の科学的とされる立場と同じです。科学者が調べたことの方が訳のわからない陰謀論者のいうエビデンスより正しいに決まっているだろう、と言う声が聞こえるような気がしますが、そもそもエビデンスは信じるものでもなく、信頼するものでもなく、疑うためにあるものです。科学で扱うものは実は全て仮説であって、仮説の中で確率的に真だと思うことをエビデンスとします。ですので、エビデンスを「信じる」とう態度を示した時点でそれは科学的ではないことになる理屈ですね。

トランプ支持者に対するリベラルの反応は、雑にいうならば「バカの集団」というのが本音ではないでしょうか。バカだから陰謀論を信じる。科学的な思考がないから突拍子もないことを言う。そういうイメージがあるだろうと思います。
ですが、私はこの問題に対して、個人の知能の問題ではなく「科学が信じる対象になったこと」こそが根本的な原因があると感じます。もちろん、多様な要因が考えられますが、科学の原理である「疑うこと」が抜け落ちてしまったことは、私たち一般大衆にとって科学的態度をとる機会を失わせてしまいました。科学的ということを「エビデンスがあることは正しい」と考えている人は、理屈で言えば本質的に非科学的であって、トランプ支持者と同じ論理で考えています。
本来の科学の態度である「疑うこと」をやめてしまうと、「信じること」だけの世の中になります。その意味では世界は宗教化していて科学は退化しているとも言えるかもしれません。

話がややこしくなってしまいましたが、「信じること」と「疑うこと」の区別が、科学と信仰の棲み分けだったのが、今の世の中には「信じること」だけが残ってしまい、それぞれが「信じること」を持つ原理主義的な考えが大半を占めるようになりました。原理主義は他の原理主義と対立します。戦争が2000年も続くのはその考え方に戦争をさせる要因があるからでしょう。「疑うこと」というのは自己を疑うことでもありますね。内省とは自己を見つめることで、そこには自分への疑いの眼差しがあります。
理想的な考え方があるとすれば、「信じること」を疑いつつ前に進む。これが中庸を行くということなのではないしょうか。


*この文章はトランプ支持者を中傷するものではなく、特定個人を批判するものでもありません。問題にしているのは思考であり、分かりやすい例としてトランプ支持者を使用しています。


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