見出し画像

大人の迷子

急にふらっとどっか行くよね?笑

自信満々に1人で歩いていたら母の姿を見失って途方にくれた。
気づいた時にはお店の店先に1人座っていた。
その後、攫われたと思って血眼で息子を探す母に見つかり、私は人生史上最大の大泣きをしながら家に帰った

らしい。4歳の時のことらしい。


大阪の商店街で人生で初めて迷子になった時のことは、子供の頃から親によく聞かされてきた。
私の妻は、物心ついて以降義理の両親から、数えきれないほどのエピソードを繰り返し聞かされてきたそうだが、こと私の場合、繰り返し聞かされたのはこのエピソードくらいである。

イメージする商店街の一角の丸椅子の上。
迷子、という言葉を聞いて思い浮かぶのは、椅子に座っている自分を正面から見ている景色。
覚えていると思っているのが椅子から見た人並みや座っていた椅子の感触でないのは、本当の意味でその出来事を記憶していないからだろう。


この前旧知の友人と話していて、自分が大きくなってからも迷子「のようなこと」を繰り返していると思い知る。

「急にふらっとどっか行くよね?笑」

北海道での修学旅行で、小樽の街で設けられた自由時間。オルゴールを作っている同級生達から離れて1人レンガ倉庫を見に行く。その後発見される。

温泉街に友人と旅行に行った時、1人早く温泉から上がり、偶然見かけた路上のコンサートに聞き入る。その後発見される。

職場の同期といつも昼を一緒に食べ、1人だけ先に抜ける。(最初はそこに行く。最後までそこにいない)

そして1人、そんな仲良しグループから抜け出して転職する。


その友人と話す前、夕食を一緒に食べる店を歩きながら探していた。
最初は一緒に入れる店を探していたがどこも混んでいて、フードコート的な所にたどり着いた。
そういえばここでよく通っていた餃子屋があったと思い出した私は、
「じゃあここ集合で」
と適当な席の前で友人に告げた後、ふらっとその店へ向かった、らしい。

当人、つまり私に「ふらっと」という意識はなく、むしろお互い自由に店を選べるよい場所だ、互いの好みを尊重できて良い、ぐらいの感覚。

呆れながら笑いながらそのことを指摘する友人の話を聞きながら、
報連相(ホウレンソウ)が足りない!
考えてることがわからない!
と周りから言われ続ける現状をぼんやり思い返していた。


自分は色んな意味で迷子になりやすいのかもしれない。
ちゃんと伝えきれていなくて不安にさせることや、議論をどこに向かわせようとしたか忘れて途方に暮れることが多い。道に迷うことはなくても、これは立派な大人の迷子だ。

それでもこれまで何ら致命的な遺失物なく過ごせてきたのは、周りに見つけてもらっていたからなのだろう。帰るべき場所に帰らせてもらってきた、ともいえる。

退職した後も会ってくれる前職の友人たちの存在は、あたりまえのようでとてもありがたい。

多分これから先も迷子になることを繰り返す自分は、ちゃんと周りに感謝しないといけないのだ。
いつも見つけてくれてありがとう、というと少し大袈裟だろうか。

妻と子供が今晩食べる晩御飯を用意し、乾いた洗濯物を取り込み、風呂を洗ってお湯を入れるだけの状態にしておく。
今日は好きなアーティストのライブを見に夜まで家を空けるから、2人が帰ってきてからツツがなく夜を迎えられるよう、家を整える。

ドヤ感が滲まないように気をつけながら、夜の準備を済ませたことを妻にLINEする。

家を出る時、今晩の自分は迷子ではないな、と思いながら鍵をかける。

妻とのLINE。嬉しくてスクショ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?