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祈りとお金と危機感と

お寺で一緒に働いてくれる職員は、よくこう言います。

いい人が集まっている。
気持ちよく働くことができる。
いい顔をして帰っていく参拝者にこちらが癒される。

こうした感想を聞くたび、ありがたいことだと思いつつ、こうも思うのです。

これはこれで危険だな、と。

いわゆる観光寺院として、何をせずとも参拝者が来られるお寺で働いています。
その入場料で経営が成り立っています。お寺にも経営は当然あり、数年働いているとお金の流れもだいたいわかってきます。祈りにもお金が必要です。
ですが、安定的な収入がある場所には、お金のにおいを嫌がる人が集まる傾向があると感じます。
どうにもそこにふわふわした覚束なさを感じます。

コロナ禍の時はやはり肝が冷えました。人が動くことを禁じられ、そもそもお寺の存在意義って何だったっけと、根本から問いを投げかけられた日々。
なんとかそんな日々を乗り切り今があるわけです。
とはいえ神仏というものはそのそばにいるだけで人を集めるもの。

かつて感じていた、本当にこの先お寺は残り続けるだろうかという焦燥感は、今や誰も実感として覚えていません。


少し前、とある書店で行われた対談会に参加しました。
個人書店の店主と、とある独立系出版社の社長とが、本と流通の現場を赤裸々に語るという対談会です。
あまり異業種のことにふれる機会がないこともあり、ふらっと参加したところとても面白かったのです。

本屋の本音、版元の煩悶ーレジスタンスとルネサンス

店主は、「自分の店では文庫は置かない。純利益が数百円になるかならないかのものを売っても仕方がない。自分みたいな小さなところではある意味当たり前のことなんですけどね」と言い切っていました。

町の本屋が減り続けている、読書文化には町の書店が必要だ。
そうした巷の言説を冷静な経営の目線で断ち切る、一般的な書店店主のイメージとは遠い、勝負師の面影が感じられた言葉でした。

生き延びるために当たり前のことをする。
お寺の場合それは地道な布教、ではなく、今お寺を必要としている人にその存在があることを(緻密な計算の上に立って)伝え続けること、結果人を呼び込むことです。

今はどうしたって胡座をかいてしまえるこのお寺も、いつ災害で参拝者を呼べなくなるときがくるやも知れません。
泰然と構えつつ、そんな時が来るであろう日のことをどこかで頭に思い描く。
そんなシビアさを持つことも、現代人の疲れや悩みを受け入れる場として必要ではないかと思うのです。

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