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「必要がなくなる」寂しさと喜び
親としても、教育に携わる者としても、必ずくる「巣立ち」の瞬間。
心血注ぎ手塩にかけて育んだ、その子の、その保護者の成長を身をもって感じた次の瞬間、その時はやってきます。
大切な人の「巣立ち(=そばにいる必要がなくなること)」はとても寂しくはあるけれど、同時に未来に一歩踏み出す姿を見ることができる喜びもあります。
だからこそ、悲しんでばかりいないで、エールを送り、そっと背中を押してあげましょう。
在る方がお話されていました。
「〇〇さんでなければ~」と言われればとても嬉しいものですが、本人がサポートされていたことを忘れるくらい自信をつけ、安心感をもって次のステップに進むことができるのであれば、それは更に嬉しく喜ばしいこと‥‥と。
確かに。
「〇〇さんでなければ~」は不安があるから出る言葉、「〇〇さんがいなければ・・・」は自分に自信を持ち切れていない証拠。
ということは、これらはの言葉は「依存」の現れ。
そう考えると、その人にとって「必要がなくなる」ことは、依存のない健全な「巣立ち」であるということになるのでは?
送り出す身としては、これほど喜ばしいことは確かにないかもしれません。
だから、「どうぞ名残惜しむことなく笑顔で巣立っていってください。」と私は願うことにします。
私自身の働き方改革と教室の年度末にあたり、今まで紡いできた多くの方とのご縁が切れてしまいます。
急に身の回りが閑散とすることが不安で寂しくて、その気持ちに押しつぶされそうなことも嘘ではないけれど、それに負けない自分でありたいと思います。
とにかく笑顔で、笑顔で。
この先たとえ思い出されることがないとしても、それは順調に歩んでいる証拠なのだと喜べる自分でありたい・・・。
でも、私は知っています。
いっとき記憶から去ったとしても、大切な誰かを100%忘れてしまうことはないということを。
ひとが何かを想いかみしめるのは、「巣立ち」から随分と時間がたった時・・・いわゆる「晩年」なのかも。
なぜなら私自身がその感情を経験しているから。
今回も、最後までお付き合いくださりありがとうございました。
毎回とりとめのない話ばかりで恐縮ですが、また立ち寄ってくだされば幸いです。
それではよい夢を。
そして、明日も笑顔で。