共感的音楽論
音楽の作り手も、この世界の中で、<自分> という限界を免れることはできないが、特に音楽の場合、それが派生させる、現実離れした特殊な環境によって、その限界にうすうす気がつくことがあっても、自覚的になるのは難しい。
それでも、その響きには、作り手のこの世界との関係の”ありさま”が自ずと現れてしまう。
歌詞の中に歌われる景色と、音の響きによって聴く者の内面に喚起される情景。
音楽を聴いていて、自分の内面がどこかへ連れていかれたような感覚になることがある。いつもの場所にいるのに、自分のまわりに在るものの感覚が違って感じられるのである。閉じていた感受性の受容体がもう一度自分の身体に開いたように。
ポピュラー音楽は、言葉(歌詞)と音(曲)で成り立っている。そこに、なにかに息を吹きかけられたように、なにかが加わると、それは<響き> となって、はじめて作り手の前に現れる。
音楽が、聴く者の内面で響くのは、「歌詞の意味」や「音のつくり」といった、作り手側の<意図>とはあまり関係がない。<意図>といったものと関連づけるのは、後付けの解釈に過ぎない。
音楽も人生よりも軽い。ただ人生よりもその中に入るのは難しい。もし今聞いているこの曲の中に入ることができれば、地面に足を着けたまま、少しだけ生きることの身体の重心を軽くすることができる。
音楽が、偶然それを耳にした者の内面で、不意に、なにかを蘇らせるようにその奥を震わせるように響きはじめることがある。
日常の慌ただしい気分の入れ替りに紛れているが、確かに私に課された<生>という重たい目的の要請で出来上がった<私>という存在は、何かを解かれたように、もう一度ばらばらになることができるのではないかと感じられてくる。その奥から気怠い疲れがもう一度全身に回復してくるように、その重力のままに頭を枕の上につけることができるかもしれない。
音楽や映画などの<作品>といわれるものには、その作品の時間の流れとは別に、そこに、もうひとつの時間が貫いている。<作品>といわれるものが、現実の世界で成立するのは、その作品の<絶対的外>の存在であって、それに関係も関心もない<世界>というものの、もうひとつの時間の存在が、そのまま、他者(世界)として、その作品に内在化されているからである。
今、音楽は、”誰かの必要”から出来ている。”なにかのための手段”に過ぎない。
作り手によって生み出された音楽は、社会的なシステムを通して、この世界に届けられる。そこを通過できたものだけが、この世界に<作品>(響き)となって実現される。
この世界にまだ響いてこない響きのひとつとしての音楽。