「することができる」は冗長な表現か?
「上記のような見解に対し、以下のことを推察することができる」
こういった文章を見ると、後半部分「推察することができる」を「推察できる」に言い換えたくなります。
このような感覚を持つ編集者は多いのではないでしょうか。
私の場合、編集+組版も同時に作業していますので、気づいた時にインデザイン上で修正してしまいそうになります。
本当に、修正していいのか?
いつも悩ましく思います。
先月まで、考古学関連の書籍、A4サイズ・380ページの編集+DTP制作を担当していました。
校了pdfに検索をかけ、「することができる」という動名詞風の表記がいくつあるか、確認してみました(日本語には動名詞はないようですので、動名詞風と書いています)。
すると、64点がヒット。
例えば、
「ダウンロードすることができる」
という表記が出てきます。
確かにここでは「ダウンロードができる」とした方が伝わりやすい印象を受けせんか。
では、下のようなものはどうでしょう。
「把握することが容易となった」
これも端的に「把握が容易となった」と言い換えればいいのでは、と思いませんか。
ただ、以下のような文章であったならばいかがでしょう。
「遺跡の全体像を、ようやく外部の研究者でも把握することが容易となった」
なかなか外部の人には把握できなかったことが、ついに努力が実ってできるようになったという内容ですね。
これを端的に以下のように言い換えると、どのような印象になるでしょうか。
「遺跡の全体像を、ようやく外部の研究者でも把握が容易となった」
端的にはなりましたが、やや短絡的、軽薄な印象になりませんか。
この文章では、筆者はより細心の気持ちで、結果が実るプロセスを追体験してほしいところかもしれません。
そうであれば、端的な表現よりも、多少長くなっても「することができた」という方がピタッときませんか。
少し、読者に速度を落とし、足踏みしてもらい、筆者の伝えたいことをなぞってもらうよう、文字を重ねる。連ねる。
冗長か伝わりやすいかは、単に文字数の多少だけではなく、内容の軽重によって使い分ける必要がありそうです。
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