『古事記』と『日本書紀』
日本国の成り立ちを記した最古の文献『古事記』『日本書紀』(記紀)。これらの書物の研究を専門とする枯野屋が解説します。
中国を中心とする漢字文化圏の周縁に位置する新興国家「日本」は、日中韓の国際情勢が激動した東アジアの「世界大戦(白村江の戦い)」を経験して中華帝国の支配秩序から自立する必要を感じていました。そのためには、中国の最新の行政法である「律令」を受け入れて、それまでのゆるやかな豪族の連合政治から天皇を核とする集権化をはかる必要がありました。
ですが、律令はあくまでも中国のものであり、法律を支える価値観が日本のものとは異なっていました。そこで古代の日本人は自分たちの伝統文化に根差した国づくりが必要であることを深く自覚したのです。このことは明治維新後の近代国家の国づくりにも共通しています。そうした日本の道しるべとして生み出されたのが「天皇」の正統性を支える『古事記』『日本書紀』だったのです。
「古事記」の内容について気になる方は以下の記事をご覧下さい。
1,『古事記』とは
『古事記』は奈良時代の712(和銅五)年に太安萬侶(おほのやすまろ)が元明天皇に献上した際の序文をもつ日本で現存する最古の文献です。上中下の三巻からなり、漢字のみを使った変体漢文で記されています。
2,『日本書紀』とは
『日本書紀』は同じく奈良時代の720(養老四)年に舎人親王(とねりしんのう)以下の編纂班が編修した日本最古の正史とされる歴史書です。こちらは全三十巻と系図一巻のうち系図一巻をのぞく三十巻が現存しており、漢字のみを使ったおおむね純粋な漢文で記されています。
3,記紀の性格
まず文体の面から両書の性格を考察してみましょう。東アジア世界の歴史書にはおおむね二つの文体が存在し、帝王の歴史を記す本紀と、その他の伝記を記す列伝とを備えた「紀伝体」と、年月順に記事を記載していく「編年体」とが代表的な歴史書の叙述スタイルでした。
このことを念頭に置いて記紀を見てみましょう。Wikipediaでは『古事記』は紀伝体と説明されているのですが、本紀と列伝とが備わっていないので『古事記』が紀伝体というのは明らかに誤りであるといえます。一方の『日本書紀』は編年体の書式で記述されています。このことから『日本書紀』は当初から歴史書として構想・執筆されたといえます。しかし『古事記』の性格については専門家の間でも結論が出ていません。
4,記紀の成立
次に、成立と内容を見ていきましょう。『古事記』の成立については上巻に付された「序」が唯一の資料です。「序」の実態は臣下である太安萬侶から天皇に提出された上表文です。
その序=上表文によれば、天武天皇が、臣下が所有している「帝紀」と「本辞」、別名「舊辞」とが事実に即していないことを嘆いて、(天武天皇から見て)正しい歴史観を後世に伝えようとしてこれらの資料を加工して稗田阿礼(ひえだのあれ)に「誦習」(よみなら)わせたものを、太安萬侶が編修して作成されたものである、と伝えています。
このことは正史である『日本書紀』の記事と関わりがあると指摘されており、『日本書紀』天武天皇十年三月十七日条において、天武天皇によって川島皇子(かはしまのみこ)以下の皇族その他の官人に詔して、「帝紀」と「上古諸事」を編纂することが命じられます。この天武天皇の詔によって、『古事記』と『日本書紀』に共通する原資料の作成が開始されたと考えられています。しかし、両書の具体的な編纂過程についてはまだ未解決の問題が数多く残されています。
5,記紀の内容
両書に共通する内容は世界のはじまりから神代(かむよ)を経て歴代の天皇に至るまでの神話と歴史叙述です。ところが世界のはじまりの説明の仕方において両書の間には決定的な差異が存在しています。
まず『日本書紀』では天地開闢(てんちかいびゃく)は、混沌から隂陽の二気が分かれて天地に分かれたとする中国思想を下敷きにして世界のはじまりを説くのですが、『古事記』では『日本書紀』の天地開闢説を取らずに「天地初発」(あめつちのはじめ)として中国思想を参照せずに天地のはじまりから語り起こすことに特色があります。記紀はそれぞれ神話の世界観が違うのです。神話の詳細は「日本の神話入門」の記事に詳しく書いてあります。
『古事記』では「天地初発」から第33代推古天皇までを奈良朝の時点における「古代」と捉えて記載しているのですが、『日本書紀』では第41代持統天皇までを連続的な視点から記載しています。
6,記紀はどう読まれたか
『古事記』は貴族と神官あるいは寺院を中心にほそぼそと伝承される運命をたどったため、江戸時代までは広く受容されることはありませんでした。一方の『日本書紀』は成立の翌年から公的な講義が開始され、正史としての地位を確かなものにしていきます。その後、『日本書紀』は平安時代や中世にも盛んに研究され、江戸時代初期に刊行されるなどして、日本文化と宗教の形成史上重要な役割を果たしていました。
ところが、江戸時代中期に活躍した伊勢の国学者である本居宣長が『日本書紀』に含まれる中国思想を不純として批判し、より成立の古い『古事記』の純粋な価値を主張して以降、『古事記』の価値は急上昇します。これは日本思想史上の大事件でした。
この過程で神道には伝統的な神仏習合や江戸前期に勢いづいた儒教(朱子学)による儒家神道を退ける復古神道という新たな思想が生じます。復古神道を奉じる人々は幕末維新期に志士として、あるいは民間の草莽として近代日本の国づくりに参画していったのです。その結果、廃仏毀釈や国家神道という宗教弾圧の惨劇を招く要因にもなりましたが、記紀は時代を超えて日本の道しるべになっています。
【参考文献】
・大倉精神文化研究所『神典』神社新報社、昭和十一年二月十一日
・Wikipedia「古事記」:「内容は、神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)が紀伝体で記載される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98
(2021年3月9日閲覧)
漢字文化圏の日本の立ち位置についても考察しています。
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執筆者プロフィール:
筆名は枯野屋(からのや)。某大学大学院文学研究科博士課程後期に在籍中。日本思想史を専攻。noteにてオンライン読書会の国文・日本思想史系研究会「枯野屋塾」を主催しています。( https://note.com/philology_japan )。