無意識下に働きかける言葉かけ「ナッジ」
「みんな塾に行っているけど、ぼく、塾に行ってない。成績が悪いのは仕方ないよ」と言っていた知人の子ども。私は傍らにいたYouMeさんに「塾行ってないのに勉強できるって、一番かっこいいよね~」と何気なく言うと、その子の目が「えっ」と言った感じで、キラーンと輝いた。私は内心ほくそ笑んだ。
塾行っている子が成績良いのは塾のおかげ、塾に行かずに勉強できたとしたら、それは自分の実力?塾に行かないのは不利だと思っていたけれど、自分のすごさを見せつけられる絶好のポジションに自分はいる?
それに気づいたその子は、自分で頑張って勉強するようになったらしい。
行動経済学で「ナッジ」と呼ばれるものがある。もともと肘で小突く、という意味なのだけれど、命令でも懇願でもなく、ほんのちょっとしたことで無意識下に働きかけ、ついそうしたくなるように仕向けるもの。このナッジは、子育てや部下指導でも大切なものだと思う。
災害時に「早く避難してください」と呼びかけてもなかなか避難してくれない。しかし「今なら避難所で寝られるだけのスペースが確保できます」と呼びかけると、あ、早めに避難しようか、となる。言葉かけのちょっとしたデザインで行動が変わる。
「これだけのノルマを達成するように」と上司から言い渡されると、ウンザリする。嫌気がさす。けれど「これだけの業績を上げたやつは、過去にあんまりいないんだよね」とつぶやくように言い残して上司が立ち去ると、「いっちょ挑戦して、上司を驚かせてやろうか」と企みたくなる。
「頑張れよ」「期待しているぞ」と言われると、「十分頑張っているのに、もっと頑張れってことか?不満ということか?」とウンザリする。しかし「頑張り過ぎるなよ」「無理して体壊すなよ」と言われると、頑張りを十二分に認められたと嬉しくなり、もっと頑張りたくなる。
親切心のつもりで「ああしなさい、こうしなさい」と言うと、相手は「子ども扱いしないで、教えてあげたんだといい気にならないで」と不満になり、やる気をなくす。しかし「なるほど、そんなやり方もあるのか」と、本人のやり方に驚いていると、もっと工夫して驚かせてやろうとやる気が増す。
自然とそうしたくなる声掛け、接し方(ナッジ)は、子育てや部下育成では非常に重要。過去に書いた部下育成本や子育て本は、その「ナッジ」を意識して書いた。
言葉って、額面通りに受け取られるとは限らない。むしろ「裏のメッセージ」が伝わることが多い。たとえば、すでに述べた「頑張れ」。
「頑張れ」と言われた人間は、「つまり今のオレは頑張っていない、と思っているんだな」と、裏のメッセージを受け取る。だから、「頑張れ」と言われるとやる気をなくすことが多い。言葉の額面では励ましているようで、裏のメッセージとしては意欲を奪う言葉かけ。
これに対して「頑張り過ぎないで」「体を壊さないように」という言葉は、額面では「頑張るな」と言っているようだが、裏メッセージとしては「そうか、体を壊しそうなほど頑張っていると認めてくれているのか」と感じ、嬉しくなる。言葉の額面と裏腹に、「ナッジ」が無意識に働きかける。
「おめでとうございます!○○分までこの部屋にいる子は、お父さんとお風呂に入れます!」と言うと、子どもは遊んでいたのを慌てて放り出してお風呂に向かおうとする。私は通せんぼし、「ダメだ!○○分までこの部屋にいるんだ!」というと、必死になって潜り抜け、お風呂に向かう。
子どもは大人の意表を突くのが大好き。大人を驚かすのが大好き。大人の裏をかくのが大好き。ならば、「表」をデザインすると、「裏」に子どもは行こうとする。これもナッジの一つだろう。問題は、YouMeさんと子どもたちが風呂に入っている間、私は孤独になること。
補助輪付き自転車で爆走するのが大好きな娘(年長)。しかし交差点の手前で止まらないことがあり、ヒヤヒヤ。「止まれ!」と言ってもなかなか止まらない。どうしたらいいか考え、声掛けを変えてみた。交差点に近づくと「さあ、クルマが走ってこないかなあ?」手前で止まり、左右確認するようになった。
クルマが右から、あるいは左から飛び出てくるような気がして、慎重になるのだろう。「止まれ!」といっても、それはクルマを意識させる言葉ではないので、子どもにとって、単に楽しい爆走を邪魔するつまらない言葉に聞こえて、聞き入れなくなっていたのかもしれない。しかし。
「クルマが飛び出てくるかもよ」と言うと、自動車が猛スピードで迫ってくる映像が浮かび、それを回避できる動きが必要だ、と自然に判断できるらしい。子どもの警戒心が自然に湧きあがるよう、「ナッジ」を工夫すると、行動が変わる。
昨日言及した「家栽の人」の主人公、桑田判事は、このナッジの達人。子どもや親、その周囲の人、あるいは調査官などに、ハッキリした答えを示すことはない。多くの場合、本人の無意識に働きかける言葉かけをしている。うまいなあ、と、私は感心する。マンガにしても、実に見事。
シンナーを吸ってばかりの少年をどうにか更生できないかと悩む弁護士と若い裁判官。しかしそもそも、飲んだくれの親父への不満があるからシンナーをやめられない、ということに二人は気がつく。そしてその親父は、孤独であるために飲むのをやめられずにいる。袋小路に陥り、悩む弁護士と裁判官。
桑田判事は「弁護士として、裁判官として少年にできることはないかもしれない」と述べながら、「でも私たちは、人間でしょ?」と二人に言う。
二人は「人間」としてできることはないか考え、少年の父親と「友達」になることにした。問題の根っこは、父親の孤独にあると考えて。
主人公の桑田判事は、子どもが、あるいは人間が、変わろうとする力、現状を打開しようとする意志が必ず生まれることを信じる。自ら「どうせ」とか「何をやっても無駄だ」と呪いをかけているのを、少し「ナッジ」をかけることで、自ら変わり出すことを信じている。ある意味、祈っている、と言えるかも。
どうか、幸せになりますように。自分の力で動き出しますように。そう祈りながら。
私にとって、「信じる」と言う言葉は、「祈る」に近い意味。子どもは、あるいは人間は、本来的にその力を備える。その力が開放されるよう、「呪い」を解くナッジを考える。桑田判事は、そのモデルとして最適。
「家栽の人」は、「ナッジ」がどういうものか、子どもや大人を縛る呪縛を解くのに、どういう「ナッジ」が適当なのか、それを思考実験するのに、とてもよいテキストだった。私は今も時折、読み返す。教育に携わる人はぜひ、「家栽の人」のご一読をお勧めしたい。