子育てや部下指導には「陽圧」より「陰圧」
子育てを「陽圧」でやるとうまくいかないことが多いように思う。励ます、背中を押す、ほめる、手を引く、は大人からの働きかけ。大人が能動的で子どもは受動的。こうした大人からの「押し」があると、子どもは引いてしまう。意欲がなくなってしまう。意欲が消えれば、どんな大人の努力も無駄になる。
微生物の複合培養も、無理があると言われていた。私は「陽圧」ではなく「陰圧」にしてみた。微生物に何かを与えるのではなく、何かが欠落した状態を作った。そして、その欠落を微生物に埋めてもらうことにした。すると不思議なことに、一万種以上いる微生物が欠落を埋めるために一斉に動いてくれた。
岩礁に張り付いた重油を、スーパー微生物で分解、とかいう話があったけど、どれもうまくいかなかった。しかし面白い方法がある。その岩礁に肥料をまく。すると重油はしばらくして分解してしまうのだという。微生物を加える「陽圧」だとうまくいかないのに、なぜ肥料なんかで?実はこれも「陰圧」。
肥料には、炭素以外のすべての養分が含まれている。すると、土着の微生物は「あと、炭素さえ手に入ればパラダイスなのだが」となる。そう、重油は炭素のカタマリ。微生物は重油をおいしく頂くようになる。肥料を与えることで、一種の炭素欠乏症にすることで、微生物がそれを補おうとするのを利用。
私は、どんな働きかけ(陽圧)をしても言うことを聞いてくれない微生物たちが、陰圧だと素直に動くということに気がついた。言うことを聞いてくれないといえば、子どももそう。ならば、何かを与える、働きかける陽圧ではなく、子ども自身が働きかけ、変えていく、陰圧の方がいいんじゃないか。
大人の言う通りにさせる、大人が動かすという「陽圧」をやめ、子どもが働きかけ、子どもが動かす「陰圧」にしてみたらどうなるのだろう?そのことに気がついてから、スタッフや学生への接し方を変えていった。私から働きかけるのではなく、相手に働きかけてもらえるように。
スタッフや学生への試行錯誤から見つかった方法を、子育てにも応用してみた。すると意欲が全く違う。やらせようとしたり教えたりすると消えていた子どもの意欲がコンコンと湧き、子どもが能動的だからどんどん吸収することに気がついた。
子どもに「それはね」と教えようとすると、子どもの意欲は消えてしまう。私は、子どもが能動的で
あればニコニコ見ていた。新たなアプローチを試したら「お!」と驚いた。ついに解決法を子ども自ら発見したとき、「おお~!!」と強く驚いた。すると、子どもはますます驚かすために意欲を燃やした。
子どもが能動的に動いたとき、ポジティブに反応する。その形が「驚く」だと思う。「驚く」は、先回りしてるとできない。予想しちゃってると、「ほらね、やっぱり」感が出る。だから、子どもがどう振る舞うか本当のところわからない、子どもの振る舞いを制御しようとしないことが大切。
すると自然に驚きが出る。子どもが何に意欲をもち、どこまで続けるかはわからない。けれど、子どもは大人を驚かせるのが好きなので、飽きたように見えても、また新しい工夫を思いつくと、再開したりする。誰にも強制されてないから、嫌悪感がない。
勉強が嫌いになったり運動が嫌いになったりする理由は、大人から「陽圧」を受けたことが大きいように思う。勉強するように強制されたり、あるいは期待されたり。運動するように強いられたり、あるいは期待されたり。そして、言うことを聞かない子どもに大人が苛立ったり、落胆したり。
強制されると、自分の意思を無視されたようで気分が悪い。期待されると、手のひらで踊らされる孫悟空のような気がして、嫌な気分になる。だから強制されたり期待されると気が進まないどころか嫌になる。そして大人が「お前は○○だな」と吐き捨てるように言うと。
子どもは愕然とする。大好きな親が、尊敬していた大人が、自分をダメな子認定するなんて。子どもは折れた心を立て直すために、「ええそうですよ、どうせ僕はダメな子ですよ」と開き直り、強制されたこと、期待されたことを嫌いになる。そうすることでしか心を守れないから。
でも本当は、子どもは学ぶことが大好き。体を動かすのも大好き。なのに、強制されたり一定のレベルに達するのを期待されることで、嫌うようになる。避けるようになる。大人が能動的になると子どもは受動的になり、さらに引っぱり出そうとすると、恐怖と嫌悪に変わる。
息子と海に行った時のこと。打ち寄せる波に息子は立ちすくんでいた。「大丈夫だよ、さあ、海に入ろう」と引っ張られると腰が引ける。背中を押されると、まるで崖から突き落とされるのではといった様子で逃げ、むしろ後退する。私はその様子を見て「ああ、幼かった自分とそっくり」と思った。
私は幼いころに自分がしてほしかった方法を試してみた。息子の真横に立つ。ただそれだけ。息子に声もかけず、ただ黙って。
すると、息子がほんの少しだけ海に近づいた。私もそれに合わせて真横に。徐々に徐々に海に近づいて行った。しかし、波が足を洗ったとき、息子はまた後退してしまった。
私は何も言わず、息子の真横に並んだ。また海に少しずつ近づいて行った。今度は足先を波が洗っても、逃げない。私も真横に。少しずつ深みに進んで、ついに胸の高さまで入った時、息子とハイタッチした。以後、楽しそうに息子は海で楽しく遊んだ。
不安な気持ちでいるのに、大人に背中を押されたり、手をひかれたりすると、不安が恐怖に変わる。それでも強制されると、恐怖は嫌悪に変わる。「ええ、どうせ僕は海が苦手ですよ」となる。もう海に入ろうとはしなくなってしまうだろう。
私は息子の真横に立つことで、息子は私を「勇気を振り絞ったバロメーター」にしたようだ。父親が真横にいる限り、危険性はないのだろう、という安心感もあったようだ。海の水が思いのほか冷たく、波が足を洗うと下の砂が削れてバランスが悪くなるという不思議な現象も、しばらく味わうと不安が消える。
息子が海を観察し、体感から学び、これはこういうものらしい、と納得したら前に進む。息子が自分のペースで進むのに任せ、私は息子が進んだら一緒に前に進んで真横に立つことで、息子が勇気を奮った指標になった。最後のハイタッチは、「よくやった!」という私の驚きの表明。すると、息子も誇らしげ。
息子が能動的で、私はあくまで受動的。息子が前に進めば前に進み、息子が後退すれば後退する。すると、子どもは能動性を発揮しやすいらしい。そして、最後のハイタッチで私の驚きを伝えたら、息子は「挑戦してよかった」となる。能動的に動いてよかった、となる。達成感を味わえる。
私は原則、「驚き屋」。子どもやスタッフ、学生が能動的に動いた時に「お?」と反応し、何か新しい工夫があると、それが失敗したものであれ「おお!」と驚く。すると不思議なもので、大人も子どもも能動的に動くのが楽しくなり、工夫が面白くなるらしい。
最終的には、私が見ていなくても、驚かなくても、能動的に動くことの楽しさ、工夫することの楽しさを知るので、勝手に動くようになる。私は時折、「ねえ、見て見て!」と見せてくれるものに驚けばよいだけ。それに満足したら、また工夫、発見の楽しみに舞い戻る。能動的に。
子どもやスタッフ、学生の能動性に驚き、工夫・発見・成長に驚く「驚き屋」として自分を位置づけ、彼らの前に出ようとせず、先回りしようとせず、むしろ「後回り」する気持ちで、彼らが能動的に動いた時に驚く。工夫した時に驚くようにする。すると、人間は能動的に動くことが楽しくなるらしい。
子どもたちがお風呂に入ろうとしないとき、「誰とお風呂に入るか、次の3つから選んでください。①お父さん、②おやじ、③おとん。さあ、どれにする?」と迫ると、「おかーさん!」と声をそろえて。「選択肢にない!三つから選べ!」「おかーさん!」
「許さん!お前らちょっと待て!」と迫ると、「おかーさーん!」と言いながら風呂に逃げ込む。まんまと子どもたちを風呂に追いやることに成功。
これは、「父親が一番悔しがるのは?」というのを問いかけの中で暗示し、母親と風呂に入ることで父親を悔しがらせる、というゲームにしたもの。
子どもの能動性を引き出すのに、ゲームは有効。何をすれば楽しいゲームになるかを考え、そのように言動をデザインすると、子どもは楽しいから乗ってくる。「風呂に入れ!」では大人が能動的、子どもが受動的。でも「お父さん以外の人と風呂に入る」なら、子どもは能動的に楽しめる。
子どもが能動的に選択すると楽しいであろう道を、あえて指示したり示唆したりしないようにする。そして、どうせ嫌がるだろう選択肢を意図的に提示し、「選択肢の中から選べ」というと、選択肢になかったものを能動的にやろうとする。
戦前に子どもだった人の話を記事とかインタビューとかで聞くと、「勉強が大好きだった」という人が多い。興味深いことに、そうした人たちは、親が勉強しろとは言わなかったという。逆に「勉強は学校で済ませろ、家では家事を手伝え」と言われていたという。水汲みとか飯炊きとか。
親から強制されることは、できれば逃げたくて、親から「やるな」と言われた勉強はやりたくてしょうがなくなる。面白いなあ、と思う。でも、人間って、そんなもんだと思う。
人間の心理は、陽圧より陰圧の方が動くことが多い。私たちはついつい、自分からの働きかけで事態を動かそうとしてしまうけれど、自分を「驚き屋」として、ただの反応器として、子どもの能動性に驚くようにしたら、子どもの能動性を育み、意欲を高めることができるように思う。
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