フォロワー数は影響力の指標ではない、言葉にしか影響力はない
「篠原はフォロワー数が多いから影響力ある」と言われることが時々ある。私はそれに首を傾げる。もし私がどこか有名大学の教授とかで、その立場ゆえに言葉に重みと信用がつく場合、そして「立場」からモノを言う場合、たとえツイートがバズらなくても、影響力はあるのかもしれない。
しかし私は一介の農業研究者でしかなく、立場はとても弱い。ちなみに私は立場から発言することはSNSでは控えている。SNSでの発言は、仕事とは全く埒外のことに限定している。だから、ツイッターなどでのSNSの発言は、私の全く個人としての発信ということになる。
という立場の話は置いとくとして。
面白いことに、いくらフォロワー数が多かろうと、ツイートによって「いいね」数は全然違う。響くときはものすごくバズるかと思えば、全然反応がないこともある。
つまり、私に影響力があるわけではない。私の発信する言葉の中に影響力のあるものが時折現れる、ということ。
ツイッターでは、フォロワー数なんかほとんどない人のつぶやきが突然バズることがある。そこがツイッターの面白いところ。誰であろうと「言語化」がうまくいったと思われるつぶやきには、多くの人が反応する。バズるかどうかはフォロワー数には関係ない。フォロワー数が大きくても無反応も多い。
私も、フォロワー数なんかろくにないところからスタートした。そしてバズるたびにフォロワー数が伸びた。面白いことに、バズらなければフォロワー数は全く増えない。それどころか減る。私はフォロー返しを基本しないので、フォロー返しがないとフォローをやめる人たちがいるのかも。
その意味では、フォロワー数の大きさは、「過去にバズった回数」を反映しているものと言えるかもしれない。私はバズるツイートを出す確率がいささか高いということなのかもしれない。それがフォロワー数に反映しているとは思う。
しかし、それは私に影響力があることを意味するのではなく、やはりたまたま言語化に成功したその時の言葉に力があった、というだけに過ぎないように思う。私がトンチンカンなことを言っていたら、全く影響力はないだろう。そんなもんだと思う。
追伸。
では、バズる言葉とそうでない言葉の違いは何かというと、「心の中に共鳴するものがあるかどうか」だと思う。
私達は、全く知らない話、初めて聞く話だと呆然としてしまう。なんの興味も持てず、しばらくしたら完全に忘れてしまう。心の中に共鳴するものがなければ何も残らない。
バズるときの皆さんの反応を拝見してると「そう言えば私も」とか「それで思い出したことが」とか、自分の中に強く共鳴したものを見出している。たまたま発した私の言葉が、それぞれの人の心の中の思い出と強く共鳴し、そのために思考が刺激されるらしい。
私は自分の心の中にないものはつぶやかない(当たり前といえば当たり前だけど)。つぶやくのは大概、どの人も常識として知ってはいるのだけど、あいまいなまま放置してること。私もあいまいなままにしていたから、この際明確に言語化してみよう、という試みのことが多い。
すると、誰の心の中にもあることだから、共鳴しやすいらしい。私の経験では、バズる確率の高いのは、「誰の心の中にもあるものだけれど、あまり明確には言語化されていないもの」が言語化されたとき、のように思う。
ということは、影響力は私にないばかりか、私の言葉に影響力があるわけでもない、ということになる。影響力があるかのように見えるのは、みなさんの心の中に共鳴するものが既にあるから。その共鳴が大勢の方に起きた時、「バズる」が起きるのだろう。つまり、バズるとは、共鳴の音なのだと思う。
私はたまたま、みなさんの中にあるものと共鳴する言葉を発する機会が、これまで比較的多かった、ということなのだろう。それが今後続くかはわからない。おそらくそれは、私にも、誰にも。私の言葉はみなさんと共鳴しないなら、はい、それまで。
一つ言えることは、私が傲慢になって、「まだ誰も知らない、気づいていない素晴らしい教えをみなさんに伝えてやろう」なんて態度をとったとしたら、その言葉は間違いなく共鳴を起こさないだろう。だって、みなさんの心の中にないのだから。だから、傲慢になったって意味がなく、独りよがりになるだけ。
つまり、傲慢になるということは、独りで自分を尊いと誤解して自分を慰めるマスタベーション(自慰)でしかないのだろう。自慰に過ぎない言葉が共鳴するはずもない。自慰は、他者とつながろうとする心理状態ではないのだから。
私は、まだ誰も気づいていない、誰も知らない「高尚なこと」にあまり興味がない。それに興味を持つだけの才能もないし、そもそも趣味ではない。それよりは身近なことの、だけど不思議なことを見つめたい。その不思議の一端を解き明かしたい、という気持ちが強い方。
たまたまその趣味は、多くの人に興味が湧きやすいことなのだろう。身近なことだから、余計に共感者が多いのかもしれない。私の志向が、たまたまみなさんの志向と共鳴しやすいものだった、ということなのだろう。